爬虫類でもいい。ジェノサイドが時代の特殊な倫理によって生活の流れで繰り返される光景を延々と描写するマッカーシーをベッドで捲り、然し彼の描写の微細な、あるいはプルーストを越えるこだわりを見せる長文のおそらくネイティブな英文音韻に刻まれる語り部の口調の、淡々とした果てのないような時間の継続というスクリプトは、こちらの決して与り知ることのできない昆虫の判断、決心、衝動のようだと、眠りを誘う予定の朝方の横臥の読みが異様な覚醒を引き寄せて、本を裏にして置き、枕元の灯りを消して瞼を閉じてから、不規則に脈動する心臓の音を、線香花火をする子供の目つきのような盲目緊縛の中、息をこらして眠りの淵にはなかなか辿り着かなかった。
走りながら集中の度合いが高まっている現実の生活の必要を全うする社会の構造に生きる為に日々開発準備を行っている仕立てを転がしたが、これはいわばスケジュール的な動き方のメソドであり、皮膚の皺のようなものだ。はっ、はっ、ふー。と肺の大きな呼気反復の代謝が両足の疲弊をカバーできなくなると、インカやアスティカやウルの、遠い彼方の果てのようなものが眉間に近寄り、時間もまた昆虫だとわけのわからぬ数時間前をいきなり浮かべた。今日は逆回りに走り巡ろうとしていたことによる順応の不適応に呆れる中で、立ち止まり肺に酸素を送り込んで逆さ周りのほうが坂がきついなと感じつつ距離を5分ほど拡張して、早朝は雪景色となりカーテンをすべて開けて灯りを消したのは、まだ暗かったが眠る前だったか後だったかなどと、走っている時間すら忘れるような軀の疲れを、再びまたヒトというのも可逆とみれば特殊なこだわりの入れ物だと家の入り口のムカデを素手でつまんでいた。
検査とインフエンザ予防接種に伯母を車で送迎し、会話の中で齢90となるヒトの反復成就したような生の倫理を幾度も感じ取っていた。なるほどこういう時が時間があるというのか。予約検査の時間待ちを季節柄患者の多い外来で一時間以上待合室で伯母の隣に座った天使の通る隙間に、携帯であれこれメールを送る。退院した父親と母親に戻ってから函館ラーメンをこしらえ夕食とすると、こちらを気遣ってか父親は少々無理をしてよく食べた。