当時の医療技術のせいか深く刻まれてた、時には自慢していた若いころの腸閉塞手術痕を避けず、真っ直ぐ同じ箇所を縦に切り開かれた腹の傷を気にして、促す看護士や家族の言葉を、父親はまだ嫌だと振り払い、風呂は勿論シャワーも浴びずに、時々妻と娘の手を使い蒸したタオルで身体を拭かせるだけだったが、流石にいい加減にシャワーくらい浴びろとこちらも朝から詰め寄り、休日の担当の看護士の方もかなり強い口調で促すというより指図し、とうとう朝からシャワーに立ち、母親は痩せ細った身体を嘆く表情を隠さなかったが、こちらはほっとした。
腹の中の胃の下を削除縫合したからか、まだその傷口から喰ったものが滲み出てしまうと不安なのかわからないが、味の薄い病院の食事も旨くないとほとんど食べない日が続き、10キロ以上体重が減り、骨だけとなった脹脛を晒し、まだ白米も柔らかい粥だからという理由をおそらく誇大妄想している父は、ラーメンを喰う夢を見たと油の抜けた顔で呟いたが、それよりも、毎日見舞いと世話に、息子と娘が仕事で引率できない時にはバスと徒歩で、幼稚園の子供の母親のような執拗さで通う母親を、過保護だとこちらははじめて批判し、本人の立ち直りを自己責任で行うよう見舞いの日をせいぜい週に二三度としたほうがいいと、体力の衰えで気力も無くなったとこれも不安そうな妹からのメールにも応えていた。母親はともすれば見舞いと世話を理由に家事を放棄しそうな気配があり、ひとりの食事も手を抜いて共にやせ細っていたので、不安が頭を擡げていた。
相部屋の病室は4名で使われていて、術後変わらずに一ヶ月、入り口のカーテンで仕切られた場所だったので外も見えず、気力の衰えが鬱に移行する恐れを抱いた娘である妹は、ナースセンターに申し出て、窓のある場所へ父親を移動してもらえないかと談判すると、これがすんなり了解され、別室の窓際へ移ったことは、ひとつの段階が終了したようなニュアンスを当人も家族も持つことができた。
長野滞在時の仕事場として酷使していた実家の14畳の居間の中身を、かなりの量のダンボール箱に入れて車で幾度も往復してそっくり飯綱に運び込む先の見えないような作業が、引越作業と片付けと並行して、父親のこれまでの入院の日数と同じだけかかったが、とうとう先が見え、屋根やら修復の度に世話になっている業者の方に、居間を寝室にリフォームする見積もりに来ていただき、なんとか父親の退院予定日前に施工してもらえることになった。詳細を母親と一緒に報告に行くと経緯を聞く父は、以前の正気を取り戻した貌となった。不味ければ喰わなくてもいいが、自分で考えてよと息子は申したが、母親は、お前は冷たいと一言付け加えた。
伯母の家に彼岸の入りということで立ち寄り、朝まで仕事をしていたので、病院から戻って、昼あたりから二時間ほど眠り、業者との待ち合わせの前に事前に調べていた販売店へ出向き、この冬を乗り切るために選んだ4WD車の見積もりに出かけ、若い女性に応対してもらって昨今のこの辺りの車事情なども加えて、ナビやワイドバイザー、こちらとしては必須のフロント、リアの上等なスピーカーなどを選ぶ。最上級のHDDナビは10万ほど突出しており、考えればiPodを繋げればよろしいかと、メモリータイプにコストダウンし、連休明けには成約したいと申し出てから戻り、いただいたカタログやパーツカタログをチェックすると、今日日ETCは必要だとこれも加えて、10年車から遠ざかっていたことによる事情認識の希薄に今更に頭を掻いた。考えるとスタットレスに履き替える手間が(脱いだノーマルタイヤを車にすべて入れて運べない)これも面倒だと気づく。
週末金曜日の夜、ベトナム帰りのアオキ(イケダワイフ)と車選びの師匠となったイケダが焚き火遊びに来たので、オサメとヤマモトも呼び出し、野菜カレーをこしらえて焚き火の前で中学生の高原学校のような夕食を振る舞い(結局こちらは翌朝喰う)、ギターを取り出して、焚き火を囲んで十年以上前に作った楽曲「割松道代」の歌詞を覚えていたイケダと合唱するが、先週と同様ウヰスキーで倒れ朝方トイレの前の床で目が覚めると、オサメ、ヤマモトの書きかけの詩が残っていた。河原に行って焚き火の囲いの石積みをつくらなければと、朝方、少しづつ広がったような焚き火跡を眺め、珈琲を呑む。薪と斧も必要。