日頃車を乗り回すわけではないが、一昔前の代車の120キロで不安が擡げる足下のおぼつかないようなサスペンションで高速を、軽井沢まで往復し、なんとなく車の流れ自体が、平常よりも速いなと感じていた。
 高速ではなく国道や県道だけを使って、東京から長野を幾度往復したか知れない。眠気に誘われた夜もありテールトゥノーズであおられたトラックと競い合ったこともあり運転の実感を棄てて甘い恋愛を転がした時間もある。家族や友人を助手席や後部座席に同乗させて、その時には気を使い、独り乱れた時に窓を開けてタバコを吸いながら暴走した記憶もまだある。けれど、その度に何かを考え込むような運転だったような気がするのは、今回も、同乗者がいたにも関わらず、これといった会話をするでもなく、考えあぐねるような沈黙の中、あれこれ、こうでもないああでもないと黙考していたなと、車を降りてから思っていた。

 おかしなもので、運転の最中は視野を尖らせて、路面を手首に感じ止める感覚を、「狩人」さながら巡らせるほどに、逆に妙に心は静まり、見えなかった展開の思考が深まることがある。移動の中途にいる、つまり速度の中に居るということが、そうした影響を与えるものだろうか。

 距離計をみると往路200キロ近く走った半日の中、数日分の思考の回転があったようだ。座しているよりも移動の継続が、現代的な状況思索には適しているということか。距離と時間というものも、大いに加わるのだろう。列車なども学生の頃と比べれば半分の時間に短縮され、移動の想いは、それに伴って、上気するような考え方もどこか短い即物的なものへ味気なくなったかもしれない。地下鉄や都内の西から東へ繋がる電車などにも揺られる機会がなくなり、考えてみれば移動そのものが頻繁な出来事ではなくなっている。どちらかというと、あちこち移動を繰り返しているようでも、挟まれた停滞のほうが長いのは確かだ。

 洞窟の中で物思いに耽るという幻想は、実は不毛なのだなとこうして感じるのだが、では、例えば旅客機のパイロットや、アストロノーツの思念とはと、彼らの日々を考えた途端、何か近寄りがたい深淵がそこに在って、それは言葉では簡単に伝えられるようなことではないのだろうと、どこか妬ましさが生まれるのだった。

 翌日の晴れた午後に、芽吹きのようすを眺めながら歩く最中、真下を見下ろした川の石ころから、垂直にのぼってくるような光景と恣意の、これも芽吹きのようなものに出会い、速度は違っても歩いていればいいということだと、小さくおさめることにした。