あれこれ経緯があり、Nikon Binoculars 8×21 CF,Binoculars 8~16×40 Zoom を、思いがけないタイミングで使うことができるようになり、望遠レンズという経験値と、見ることが、これまでのこちらの撮影から切り離されたみつめとなって実に面白い。ファインダーを覗くことが、シャッターと連動されているカメラと違って、バードウォッチングや野球観戦、オペラグラスもあるけれど、スポットをピックアップして眺めるだけの享受の姿勢は新鮮で且つただ単に眺めるという実に不思議な歩行が生まれ、このBinocularsにシャッターカメラを取り付けたい気分が最初は芽生えたが、即座にそれは消えるのだった。

撮影の結果を隅々までピクセル等倍し光の加減とレンズを検証する時間も、望遠的みつめと似てはいるが、同時的に眺めが「生きている」体感は、特に望遠の場合の「距離差異」に顕著にあらわれ、Depth of field を、生身で泳ぐような気持ちになる。出力した平面のオブジェでは、パンフォーカスであっても一点に集約するレンズピントとボケによって解像していようと、それは平面にすぎないという、日々悩ましく感じるみつめのパラドクスがある。その呻きめいたストレスを、この生身の泳ぎが癒すとともに、なんだか新しい「みつめ」を支える蓄積になるような気がするのだった。
なるほどバードウォッチングという、小さな遠くの動きに凝視の泳ぎを与える時間は、健やかなものなのだと、今頃になって経験的に理解できるのが、これも面白い。
定点的に、高層ビルの展望室に置いてある望遠鏡を覗くようなことが、日常的に、例えばストーカー地味た、あるいは、覗き見趣味的な欲望とは別に、「見る」という人間的な本来的な能力の延長で、イヌイットの遮光雪眼鏡のような位置づけをすると、元にもどって、カメラファインダーを覗く目玉自体の、鱗は落ちる。