道具には、使われてはじめて体感しながらカラダと心に届く形の根拠というものがあり、また、長く使われて現れる実感としての形というものもある。
手の握り型を丁寧にトレースしたプラスチックの道具のグリップなども、ほんの少しサイズがフィットしていなければ、無用邪魔な意匠となる。そういう頓珍漢な計画だけはしまいと戒め心がけるのだが。
「計画」という構想が、どんなものであっても絶えず心もとないのは、実際の実現時に生じるだろう想定に限りがない、想像力の届かないほどの現実世界というものがあるからであり、これは世界の豊穣を歓びたい反面、計画とはいつまでたっても結局不完全であることの証左となり綿密な計画への追求の気概をへし折る場合もとかくある。
そんな弱く折れ曲がるココロを転がす日々を続けていると、単純でわかりきったレスポンスの反復へ逃れたくなり、学生時分の缶詰工場でのアルバイトが浮かんでくる。あの時は最悪だと感じていたが、今からみれば完璧な幸せのかたちであるような気がしてくる。
言葉も同様で、言葉を記述するということ、使うことがつまり、思考であり、言葉を使う前の思念とは、ぼやっと白い言葉でも観念でも考えでもないから、とにかく尽くすように使わねば、思考というものの輪郭も明晰にならないことは判っている。思考の停滞を打開するのは、使われる言葉以外である場合もあるが、その打開認識もいずれにしろ言葉にしなければ認識とよぶことはできない。とにかく、口で音に出して反芻する術しかない言葉の、この音が実は偉大であって、喉から声として音にして聞くことではじめて記述の正当性が砕け、あるいは逆に証されることがある。その聞き取りの音も、言葉の数とその組み合わせのイメージの数、ボキャブラリーに依存するのであって、日々忘却する落ち葉のような言葉をかき集める読みを、繰り返さないとこの検証は甘いものになる。
記述するときは読む時であるなと、風呂の中頁を捲りながら、記述などしない人間の草を毟る指先を愛おしいな。ふと思った。いずれそうした指先を持つ人間になれるのだろうか。そういう指先で死にたいとも思う。春はなんだか怖い。
SEVEN LOVERS / SpecialThanks 平安堂にはなかったのでハルボウへアマクリ(アマゾン在庫切れとは驚く)
移動準備。少々ネムロか。