kobayashikiroku062409-02.jpg
90mm f5.6 1/500sec ISO200 EOS40D / photo by Kiroku KOBAYASHI 30,April 2009

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28mm f4.5 1/400sec ISO100 EOS40D / photo by Kiroku KOBAYASHI 30,April 2009

ーカタクリは、ユリ科カタクリ属に属する多年草。比較的日光の差す落葉広葉樹林の林床に群生し、早春に下を向いた薄紫から桃色の花を咲かせる。春を告げる「スプリング・エフェメラル」の一つ。葉には帯紫色の模様がある。
早春の3~4月のみ地上部を展開し、5月上旬頃には葉や茎は枯れてしまう。種子にはアリが好むエライオソームという物質が付いており、アリに拾われることによって生育地を広げている(同様の例はスミレなどにも見られる)。発芽1年目の個体は細い糸状の葉を、2年目から7~8年程度までは卵状楕円形の一枚の葉だけで過ごし、鱗茎が大きくなり、二枚目の葉が出てから花をつける。なお、鱗茎は毎年更新し、なおかつ旧鱗茎の下に鱗茎が作られるため鱗茎は深くなる。原則として鱗茎は分球することはない。
昔は日本では落葉広葉樹林のある各地で広く見られたが、近年では乱獲や盗掘、土地開発などによる生育地の減少によって減少している。最近では人工的に増殖した上で野山に植える試みが行われ、観光名所になっている。
万葉集に残る、「もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花」(巻18)に詠まれている「堅香子(カタカゴ)」は、カタクリではないかと考えられている。また、日本の富山県高岡市は「カタカゴ」の名でカタクリを市の花に指定している。
昔はこの鱗茎から抽出したデンプンを片栗粉として調理に用いていたが、近年は片栗粉というとほぼジャガイモから抽出したデンプン粉のことを指すようになってしまった。
カタクリの仲間のキバナカタクリ(学名:Erythronium grandiflorum Pursh.)は、主にアメリカやカナダ南部の亜高山帯に分布している。ーwiki

最近は昔の中国の古典や俳句、短歌などを声を張り上げて吟じているという北海道の叔父より、旭川郊外の清涼なカタクリ群生の写真が送られてきた。フルサイズのjpgだったので、しばらくデスクトップの背景に使わせていただくことにした。

山林の木漏れ陽の中、潤った地面を足裏に感じながら歩む大気の香りといったものを加えて想像し、梅雨に蒸せた都会の地図を広げ、どこかないかと探す。

Waterland (1983) / Graham Colin Swift(1949~)
Last Orders (1996) / Graham Colin Swift(1949~)
ゴダール マネ フーコー―思考と感性とをめぐる断片的な考察 / 蓮實重彦(1936~)
柄谷行人 政治を語る―シリーズ/六〇年代・七〇年代を検証する〈1〉/ 柄谷行人(1941~)
The Book of Illusions (2002) / Paul Auster(1947~)
目眩まし / W. G. Sebald(1944~2001)
民主主義への憎悪 / Jacques Rancière (1940~)
HIROSHIMA 1958 / 港千尋(1960~)
TRANSIT3号~スペイン・ポルトガル特集
Falling Man (2007) / Don DeLillo (1936~)
森の生活〈上〉ウォールデン / Henry David Thoreau (1817~1862)
観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ / Jonathan Crary
雪男たちの国 / ノーマン・ロック
写真の哲学のために / Vilém Flusser (1920~1991)
茗荷谷の猫 / 木内昇 (1967~)
キセキ-gozoCine / 吉増剛造 (1939~)
表紙 omote‐gami / 吉増剛造 (1939~)
燃えあがる映画小屋 / 吉増剛造 (1939~)


「本格小説」/ 水村美苗をやはりまた手にしてめくりはじめていた。
軽井沢南原の別荘地を巡った際の写真を出力して、撮影時にも小説の舞台そのものというような光景へカメラを向けている自覚があり、選別すると光景の数は限られたが、何か安定的な王道ともいえる小説物語の空間に身を横たえてみたいという気持ちになったようだ。「嵐が丘」 / Emily Jane Brontë(1818年~1848)を戦後日本の舞台に書き換えた仕組みの検証という以前辿った心持ちではなく、単に物語の光景を辿りたい気持ちが今回は強い。

一枚の写真画像を読み取る可能性について、瞬間的な把握よりも移り変わる時間に依って、静止画像の時間軸が揺れるような「物語性」を、与えるように撮影したいと願う気持ちが強くなり、瞬間の凍結した静止画像故の詩的な断片性を幾分膨らませるようにと考え始めた。詩と物語とでは、描く文脈の荒野のレヴェルが異なっており、例えば静止画像の併置が産み落とすだろう、無関係の連鎖が、逆に物語をひっくり返し、詩的な孤立を新たにするのではないかと、多少期待もあるが、遅々とした形成しか望めないのは、成立させた光景は、そもそもゼロから始まるからで、記憶を動員させたとしても限界はある。
景色が印象的に構築されない観念的な関係やギミックだけが残る物語というものは片手落ちだと考えて、印象的な景色がまずある物語の、では関係や文脈はいかがなものかと逆に考えると、その印象的な光景とは何かということを演繹する必要があり、これがこちらの迷い込んだ森の扉の鍵でもあり、秘密ともいえる。なんだか、音楽をつくる人間が旋律を構築してから、そのラインに言葉を与えることにも似ている。

ーたとえばこれから十年後、私がたくさんの小説を書き、それで立派に生計がたつようになったとする。そんなときがこようとは思わないが、そうなったとする。そうしたら満足がゆくかというと、それでも私は自分が小説家であるかどうかという問いからは自由にはならないように思う。それは小説家といえども芸術家であり、芸術家というものは、芸術家として食べてゆけるかという以前に、自分が芸術家として生まれててきたかー自分が運命の星のもとに芸術家として世に送り出されてきたのかどうかを、問題にせざるをえないような存在だからである。そしてその根底にあるのは、何か眼に見えない力、人智を越えた力、宇宙を制御する神秘的な力によって、自分が芸術家として生まれる必然があったと信じたいという、誇大妄想的な思いである。(中略)だからこそ、天からの声がひそやかに耳元で鳴り響き、お前は小説家になるために生まれてきたのだ、それが天の意志であり天の摂理である、と告げてほしいと人一倍思うのである。ー
序 本格小説 / 水村水苗より抜粋