ICCで10/10よりArchives and Representation 「記録と表現」アーカイブを作る・使うがはじまる。ようやくという感触で学校に貼られたポスターを眺めていた。幾つかのワークショップが行われるらしい。以下ギャラリーBでの内容説明抜粋
ー「ギャラリーBでは,デジタル技術によるデータの蓄積とその表現をテーマとした実験/展示を展開.それらを通してデジタル・テクノロジーの関与で「アーカイヴ」がどのように変容/進化していくのかを考えます.具体的にはアーカイヴを用いた表現形式の変化,アーカイヴの視点の変化に伴う人々認識の変化,生活様式への影響など展示などを交えて検討します.」ー
アーカイブ自体変容進化するのではなくて、ドーモの宗教画が美術作品としてミニマルな空間に展示され、様々に共有されるようになったように、アーカイブ自体を扱う仕草が今後成熟するかもしれない。こうしたweb logも、使用年数が50年経過したその先を思うと、膨大な戯言のデータベースが、全く予想できない経験を与える可能性がある。その時は歴史の事実として認識されることよりも、生存の手法ーサバイバルツールの一部になっている予感があるのは私だけだろうか。現在の醜さは、TVなどで強引に流れる街角の声が皆同じということ。渋谷の百人に聞いても、そこに差異がない。コアなマイノリティーも勿論存在するが、固有な個が見えてこないし、見えても類に染まって全く同じ幻想(イメージ)に支配されている。イデオローグな群衆というものは希有となったが、同時に現在進行中の単独の記録に出会える機会も少なくなった。消費蕩尽されない強固なオリジナルデータベースということをもう少し深めてみたいものだ。夕方ベットで手にした、レオナルド・ダ・ウ゛ィンチの手記は、タルコフスキーからの流れだったが、500年前のblogを読んでいるような気持ちになった。
ー眼がさめたとき、あるいは眠りに就く前に床の中の暗闇で研究することについてー暗闇の床の中にいるとき、以前に研究した形態の表面の線とかその他微妙な観照によって把握された注目すべき物を想像の中で反復してみることは少なからず役に立つものであることをわたし自身体験した。そしてこれは確かに賞賛すべく、かつ物を記憶の中に牢固たらしめるのに有益な行為である。[Ash,I,26,r]ー抜粋