2016年から一年後までと同様に、2017年に取り組みはじめたタブローの加筆を遅々と続け、当初はセラへのオマージュとしての透視図法から、中途世相を吸収しゲルニカを経由して、到頭百年前の国吉の作品集を幾つも広げ、こちらの二十歳そこそこだった憧れにも遡行して、全て加えるような奔放を許しつつ、現在の折衝としての可能性を探るような手付きとなっていった。
 平面(タブロー)制作を再開して未だ大小十点に充たない進め方にすぎないが、淡々と考えながら行う進度として、様々な状況を鑑みるとこれはこれで、進んでいるだけましか。肉体と相談しながら手法を煮詰めていくことしかできない。タブローは、アイディアを画面に与えるというアウトプットメディアと捉えがちだが、実は思考対話の装置であって、完成されるものははじまりにないし、こちらとしては加筆の可能性(生存)がある限り「未完」であるとつくづく感得した。伴って生成されるスケッチや素描の類いによって揺らぎ続ける。

 併行して取り組みをはじめた「律」「同田貫」(仮)も、画面を凝視する時間で備わる把握の醗酵の時間はあるだろうから、これもまた延々と加筆される可能性はあるが、この構造は、思考加算に対して排他的な仕組みを与えてあるので、行方は不透明である。目的が除かれた「未完」を仕組みに構造化できるかがこちらの当面の胡座軸であり、再開時には発動した享楽的回顧は切り棄てられるし、その為にも空間的な作業へ振れることになる。