ドット(点)を軸にした思考が、チーズ構造の分解として秋から冬にこちらを捉えた穿孔を経て、寒中唐突に裏返ってそこからやや離れた距離にて促され、多面体展開図での考察へ路を延ばして鉛筆で散らかし、6~7の角を持つ多角形(図)の内部性(形象)と外部性(輪郭線の延長)によって、平面に内在するホログラフィックな素質を刺激する効果がありそうだと、初夏のステージまでは立体構造へ立ち戻るのを止め、図での展開に執着することに決めて修復的折衝を重ね、長々と眺めつつ遅々愚鈍に作業を重ねた。
 同時にこの作業は、完成(理念・目的化)を剥ぎ落とす過程を創出すると事後的に判り、見通しなど何もないことが、継続の動機となり、過程への関与そのものが意欲にも転換できた。並行してすすめていた「素質」の確認(スケッチドローイング)で、単一なシンボリックなもの(ロサティー・セラ)よりも、散乱併置される川原などを浮かべるほうが、「素質」開花の可能性が大きいことが作業過程で示された。一時、シンボリックな形象への加筆においては近代的なノスタルジーに陥ってデュシャンー国吉の霊魂と結ばれ、筋から逸れたけれども、これはこれでアインシュタインの時空斜面を浮かばせる契機になり、目の前に都度立ち顕れるものはこの斜面的な想起、想像力であって構わない、むしろ自然であるなと認識するに至る。
 立体的物質空間と、平面図的な捉えの、隙間に居るような奇妙な居心地が続いているが、謂わばこれが自己同一であって性情だろう。
 「素質への刺激」ではふたつみっつの反復で作業が具体性を帯びるのみだが、形象的追求においては可能性の原野である「余白」が、むしろ邪魔をして様々な余計(絵画的描画性)を呼び込む。しかしかといって、手段手法を二択から選ぶつもりは毛頭なかった。これは時空の捉えに関する認識を先鋭化し他を犠牲にして優先させる年齢ではなく、身体の現在的な性質にまず従うべきと思うからであり、検証作業の持続保持する意欲(制作快楽)を沸き上がらせることがまず肝心。

 今期の取り組みのターンが終了間際に来て、それなりの疲労から散歩する時間が増えつつ、ふと、GWに孫を連れて遊びに来た娘夫婦に体験版をやらせて眺めていた「Detroit: Become Human」の、最近のプレイ動画を眺めると、思想的な娯楽が生まれたかもしれないと感じるのだった。考えれば、連れ合いや家族の顔などなかなかつくづく延々と眺める機会などないのではなかったか。絵画の肖像画や、写真のそれもみつめる(凝視)ためにある。優れたCGのキャラクターにて物語を進行させるゲームだが、むしろそれを放棄し彼らを立ち止まらせ、所在なげに人間臭くささやかに「天使の透る -Un ange passe.-」間合いにて揺れるように動きつづける対象をずっと眺め続ける。シーマンのようなものかもしれない。しばらくしたら、休みをとってやってみようかなと。