目の前の都度の折衝としての想像力が、端的に顕われる粒子の扱いを再考する拠所はふたつみっつある。反復による視座の洗浄(想像力投入の清潔な位置の獲得)の実感はその度にあり、局面(転化)への対応を急がずに、繰り返されることで得ていった深化構造(現状の不足と飛躍)を風呂の中まで持ち込んで、新聞の記事にも意識の辿りが移らなかった。
このところ迂回的な好奇の触手を、自らの出自気質の世知辛さと諦める世代を超えたかしたのだろう、愉しみながら手元集まるに任せていると、雪原にトボトボ曲がりくねってのこる足跡の筋はひとつだが、日差しや気象によって様々にみえてくるものだ。あらわれには似た響きを確かめることができる。
空間そのものの享受(受け止めから反映まで)をイリュージョナル(意地悪な錯覚)へと策定する平面での放下は、平面という薄っぺらい構造自体が本質的な翻訳機能(寛容な意訳)を有しているわけだから、機能意匠と精度に手を加えるよりも、固有な想像力が屈折せずに表出させるほうが無駄がない。でもやはり「艶やか」のようなものは加えたいと思うのは、ようやく色彩に溢れる春になったから。