過去、現在の自身の年齢あたりを想定したわけではないが、中年の終わりの自覚に包まれて自らの立体的な作品群の中を歩む夢を、不思議な体感をともなって幾度か数年の間隔をおいて繰り返してみていた。夢ではまるで根拠や系譜のない具体的な彫像のようなものもあり、欲望が羨望と溶け合った間違いの光景として、都度笑って過ぎていく程度だったが記憶には強く残った。

 私の人生だからすきなことをやるだけだと啖呵を切るタイプではないので、ひとりの人間のできることは限られているとつくづく思いながら、できること自体が身丈に等価であるか見極めるに時間をかける。その経過が系となって、思いもしなかった光景のなかに立っている。

 そうした精神生命の辿りが、顕われとなる自然(じねん)の作用に、抗うことなく委ねながら、軌跡を残像のように捉えて、左右、上下に揺れる幅自体が、ああ、これが私であり、あったと、蓄えが解かれるような時間の速度をすすもうかなと。