音節(聴覚)の浸透的経験値(知)から生じていった西欧的文節とは異なった、形態(ゲシュタルト:gestalt)からの文法構築(おそらく記憶化、記録の必要がまずあった)、つまりこの国の、即効的なイメージの輸入に対して東へ流れ果てたモンスーンの音節を*ヒューモアの屑を払わず嵌め込んでいって言語史の軸を織り成し、それが巡りアンチロジックのプログレスの気性として現在に到った(そして今後も変わらない)血脈と踏んで、確信犯的に「ゲシュタルト崩壊」(個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象)を招く、というよりそれを望む作法(行程)が、逆説的に文の体を成す「兆し」にて踏みとどまるような眺めを手元に「はっ」と認めるような段階になり、その度に一旦突き放し、平面併置論での躓きの箇所に応用することができるかもしれないなどと考えていたのは、謂わば逆説の純潔を守りたいからだった。
文法が無ければ文体が成立しないことと同様の、踏みとどまった故に不完全な文法(的)の、前後左右を喪失した無重力な文節的な散らばりを、それ自体「宝石」のように扱う(研きあげる)傲慢浅薄な文体化も可能だが、散乱(散文)をそのまま近くへ招き寄せる手元は柔軟でなければつまらない。システム(物語)としての文法を目的としない「文体」を空間に柔軟に広げるには、展開空間の「ヤクザ」な状況(スケール・光・材質)への天使になったような関わりが求められる。
タルコフスキー「ストーカー」の案内人が千切った細布の先にナットを結びつけて放り投げ、耳を澄ましてから「大丈夫です。進みましょう」と引率者を牽引するシーンが幾度も浮かび、放り投げるモノ自体もその行為も、超越論的な仕掛けとして手元に浮かび(斜線を引く:小林恭二が隣に浮かぶ)、加えて過去が蘇るような睨みを埋め込むことを獣の目で考える。
*友人の小宮くんがamazonを密林と記述した際に思わず吹き出してしまったことと同じ。