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訪れた場所の画像を整理して休日を過ごし、フィジカルな残滓(肉の痺れ)と画像から見出される別のものを残されたイメージから眺めとるという、異なった位相を重ね合わせる差異の場所に居る感覚を味わう。
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移動と撮影と同時に持ち込んでいたMR-1での採録を元に、新しい音響を時間をかけて行うことにする。
旅のあれこれは別記するとして、この移動の間考えていたことはやはり遺すべき「イコン」(静止画像)であり、昨年の暮れから観念的に妄想している「He is looking at…..」(This Man 延長上) の具体的実現の足がかりにはなったようだ。東京に戻り、そのまま崩れるように倒れて眠ってしまった淵の中で、幾層かの夢が交錯し、現実との揺り戻しや過去と未来が行き来し、翌日の電話に目覚めた時は、肉体の中心が傾いたまま平衡感覚を失っていた。
デジタルカメラという高度なヒューマンインターフェイス自体に潜むモノ(これは予感としてあったが、これまで確認実践する充分な時間がなかった)の幾つかを確認することができたことは大きな収穫。決定的に喪失感のあったのは、標準単焦点レンズ(50mm F1.2L USM )。ズームは便利だが暗すぎる。今後行うことになるだろう「移動」におけるパッケージを洗練させる必要はある。できれば芽吹く季節に、西から北へと方角を振って、移動の時間を増やし、インターフェイスを肉体化させる時間を作りたい。
加えて、へこたれず歩き続けることができる日々の肉体鍛錬の必要も痛切に感じていた。夢に肉体改造を頼んで門を叩くという失笑する形で顕われたように、すぐに疲弊する肉体では、駄目というわけだ。


そもそも「イコン」は、物語に支えられている。この物語というテキストあるいはボリュームをどのように扱うかが非常に難しいが、物語あるいは「イコン」生成コンテクストが空白のままであることはできない。
とかく、イメージは目の前に突然顕われてしまうという「世界性」という現実があり、この出来事への対応を追われることで、人間の知覚作用を終わらせる場合がほとんどであり、構想される想起される知覚へ立ち向かう意気地を構築するには、現実への対応の上位に想起のレヴェルを想定した生の時間を生み出す工夫を、意志的に持続する覚悟は必要となる。
おそらく、段階的にこのコンテクストの構築としての「物語」とそれに支えられる「イコン」を巡る表象化という手法の、洗練を、明快な形で顕すことによってこそ、目の前にある断片は、想起の場へ瞬間移動し、新たな肌触りや香りといった佇まいを与えるようになるだろう。
そういう意味での「物語」とは、月並みな日常の描写に限りなく近いけれども、「イコン」を支えるある固有性を纏うだろうし、小説のような言語や、映画のような娯楽と違った、研磨された時空間の描写となるだろう。

Plot Planning “KATO” moved.