「ネガティブ・ケイパビリティ」設置準備三日目で鯨の腹の中で作業するゼペット爺さんの心地を浮かべていた。
久しぶりに(ほぼ三ヶ月ぶりか)モリヤ君と会って入口の仕立ての相談してから夕方山に戻りそのまま深夜まで熟睡したが、はっきりと30年前の友人が当時のままの格好で夢の中にふたり現れて、時間の経緯を共有しながら何も変わっていないあの頃のままの関心を互いに打ち明ける風な親密さで明快な会話をしていた。目覚めてから、彼らに伝えたいようなものが、今回の表出にあるのかもしれないとも思った。
一昨年に試みた「ピノッキオと芳一」から昨年の「安寿と厨子王」という個人的な展開は、創作動機に関する言及を地域社会の固有コンテンツとして両義的(個と環境)な軸として見出せるかという関わりへ向けてだったが、そこからの系を放さずに、ある種徹底した自己言及的な回想(これまで)とその曲折(挫折めいた)へ許諾を与える仕草の集積となった。地域に根を張る物語との同化を急ぐつもりはないので、まず自身の本性を現在へ照らし、その傾向を持続可能なものへ恢復させることが目的となる。
しかしあらためて、幼少の頃の積み木と庭の穴掘りの景が、こうもまあ白地(あからさま)に鯨の腹の中に広がったものだ。と腰を伸ばす。