一旦組み立て作業を片付けようとしていたが、積もったものを数えると年齢のようなものをあてはめる唐突な気持ちが浮かび(そもそも浮かんだのも、作業の手触りの残滓、余韻が不足不十分を訴えたのかもしれないし、木炭で行う作業になかなか入り込めない隙も生まれていた)、終わりのみえない書類整理の脇に座り込み、再び闇雲を取り戻すかの加減で自分の年齢の数だけと根拠のない拘りに取憑いてはじめていた。
湯槽で中村稔(1929~)や川田絢音(1940~)の詩を捲っていたこともあり、相対というよりも詩人の緊張から戻って、自身の作業の累積が韻を踏むかに眺められて、それがよいのかわるいのか、しばらく途方にも暮れた。
音響的なものも、軽やかではなく、沼の底をみつめるようなものばかりを聴いているので、創作者たちの手元を照らす光のような、あるいは照り返された俯きがちの表情が脳裏に流れ、それはそれで距離のある現れであったから、惹き込まれることもなかったが、香りのようなものは軀に染込んだようだ。