20年前の顕われは、40年前の顕われに対する不満を解消する配慮が確かに構想実行されたが(例えば鉄人28号がガンダムとなり、今子供達はPSPでガンダムを動かしている)、現代の顕われには、その配慮に対する不備を解消すべき分析が都度意識的に加えられているとは限らない。政治は勿論、表象化されるイメージやオブジェクトの対価効率は、純粋で存在論的な位置に据えられず(そういう本質論は社会の境界に併置される傾向がある)、常に社会構造に依存し、世相風評、経済的な揺さぶり、唐突な事件などの影響を受け、安定的な成熟構想を絶えず裏切るから、目の前の出来事の処理に躍起になり、乗り越えるべきは現状という現実感から逃れることはできない。そうした視点を内在した共有意識は、情報化によってバイアスとニーズが細分化され続けているということを踏まえても、基本的な欲望あるいは好奇心が散漫となる(持続可能ではない)傾向があるようだ。移動する時々の様々な対象を追いかけているという幻想に時間を奪われ、考えるよりも「見えてしまった事」「聴こえてしまった事」に、わけもわからず引っ張り回され、追いかけているようで実は受け取ることだけに費やされ(所謂TV文化)、そのパッシブな身振りには、意識的な環境依存構想などに展開する逆転的(パッシブからアクティブ)な転向に及ばない場合、つまりほとんどの場合、あらゆることを台無しにする拒絶の芽を無意識下に育むようだ。この拒否は、受け取りを断るという性質があり、それは*我々が求めているものではないという、追いかける幻想にリンクして、循環のリングを形成する。そもそも、無から有を生むというスタンスは、一切の制限の無い白い自由に約束されていなければ成立しないが、兎角この白い自由は、幻想の環がつくる陰のネガのようシミの場合がほとんどで(見返りが保証されてからはじまる)、故に二項対立(善悪)という旧世紀の古いイデオロギーに取り込まれ、貫く倫理力に欠ける。
*面白いのは「我々」という曖昧な主体が必ず主語となり、これが「私」の場合、オタク風に響くようだ。これはこの国の差別的な集団妄想傾向にある。「私は〜」というトピックは個別をピックアップしたインタビューとして特殊化された表象においてのみ受け取り対象となる。実務的な処理以外において「私」が権利として広く保証されていない社会の村構造のコンテクストがこれを支えている。名刺交換の場でも、信頼を促すのは個人名よりも所属役職が優先される。私は、大手企業の役職者から、名前とメルアドだけ書かれた真っ白な名刺を渡されたことがあり、ひどく印象的だった。
当初、ルーカスが予想していたわけではないスターウォーズの20年間の経済効果は、良きにしろ悪しきにしろ徹底的なテクノロジー投入の構築手法がもたらした。googleの倫理構想にはルーカスのイメージが下敷きになっており、この国を支える大手企業がこのscience fictionからの連関にあっと手を打って気づき、実質的な互恵関係を経営構想全面(例えば自動車メーカー+製薬会社+食品メーカーから生み出される都市開発など)に対して見直し、本腰を入れるのは、視聴率検査デバイス(Portable People Meter : ビデオリサーチ社は調査方法の詳細を公開していない)がランダムに設置されたブラウン管TVが家庭から消えてからだろうか。PPMが継続しても、液晶、プラズマのモニターに併置されるネットワークブラウザによるユーザーアクセス解析が有効と判断されるだろう。あと3年か。