ヒーリングという辿り着き方が朝方あり、幾度か胸を撫で下ろすように溜息をついた。
諦めていた病の恢復を大きく唐突に体感したような気もする。とはいっても単純な癒しを示すわけではないが、壊れている現在に対して率直な道筋としてのヒーリングは伸びていくその行方に諧謔を弄したり悲観で曇らせる必要はないことは確かであり、これは余白に向けるばかりでなく、同時に緊張が融け自らへの緊縛とも今更に思える緩やかな許しも生まれる。理由はわからない。殊更に大声で興奮する事態では勿論ない。平穏という単純な立ち位置への導きはなるほど紆余曲折ばかりだったが。
シーツだけでなく硝子板と細い糸、あるいはオーガンディーの薄い生地、紙でもよいなと加える。土自体を粘土のように扱うことも広がり、多分幼い頃まだ妹が生まれていなかったわたしが独りで庭に穴を掘り土弄りばかりしていた夏の蝉の声まで降り注いだ午後、その同じ姿勢で庭に座り込んでそうかと表情を取り戻したようだった。
追記:アグレッシブなヒーラーも可能。