この場所に来てから十二日目の朝初めて鳥の声に耳を澄ました。午後には頭の上を大きな鳥が翔んだので思わず口笛を大きく鳴らした。
日に幾度も往復しているのでガソリンが目に見えて減る。市街まで片道15キロだが、往復はその日毎、都度の用事があって40キロほどになる。三度行き来すれば百キロを越え5回往復したこともあるから、ともすれば二日でレギュラー満タン現金でとスタンドに入る。
盆休みを利用して遊びに来てくれた人間もいて、片付けの途中だったが庭先を掘り念願の焚火を囲みいい知れぬ静かな充溢がその時は身体を巡った。薪が必要。
次女とその友達も滞在宿泊の延長を申し出たが、父親の検査や入院を控えていることもあり帰れと諭した。環境構築の最中にいて夜毎家具や調度を眺めてクリックし、遅々と段ボール箱から書籍を一冊づつ取り出して空間を見上げることを繰り返し、それを朝まで続け、一体いつになったら片付いてここに来たことになるのかと途方に暮れ、ふと手を止め床に寝ころびFMの音を消すと、あれこれ些末な作業に振り回されて場所自体に身体をひらいていないことに気づいた。
灯りを消すまで外は暗かったが、消してしまえばぼんやりと樹々が視認できる頃、森を吸い込むように四方の窓を開け、冷え込んで雨だったが、環境のリアルに身体を任せると、ここ数年の観念や妄想が溢れ出て揮発し、リアルとの差異に驚くというよりも、身体に環境を浸透浸食させなければ、逆転して脆弱を守る殻をつくってしまう危険もある。知覚を投げ出すと観念が萎み、生存本能のような体感がふつふつと湧く。よろこばしいけれども、同時に虞れもある。
薄明かりの中で立ち上がり、見えるべきことと、見える必要のないものを区別し、細々としたものは見えないようにする。森を抜けて広がった飯綱の裾野の広大で整然とした(地を舐めた証でもある)農地が浮かび、あのようにと戒めることで尚不要を探し出し、この場所に運んだもの全てを検証する等価を与えると整理は捗った。