オーロラの向こう側を読み終えるとTVニュースでは福田総理の辞任が流れた。
数あるコメントの中で、立花隆の「彼は総理の器ではなかった」が端的に顕われを指摘していた。
Åsa Larsson(1966~)の、ともすれば辟易する女性的な五十歩五十一歩の描写は、曲折も多く、「エーデル改革」の費用の効率化を目指した「民営化」で社会の脆弱化が報告されている、医療や老後などの社会福祉が万全だったスウェーデンの現代社会の今在る闇を告発する意味性も無いとは言いきれないと感じる物語の構築には、辛うじて清明で平明な眼差しはあって、その涼しさとはつまり、人間の疲弊の過程に応じた決断と対処の現代的寓話であり、これは痛みを背負いながら道を歩むという意味で、現実性を問うていることで評価できるし、だからこそ臨場感が生まれて面白いのであって、そこにしか新しい倫理は生まれない。そういう意味で彼女の次の作品を期待するのだが、この国の宰相の辞任は、いわばエゴイスティックな個人の痛みの放棄であり、償いの放棄でもあり、いかにも古くさい高度成長を差別的美的に生き抜き、汚れを纏わぬまま勝手に死ぬ独我を表象したと云える。こういう小賢しい年寄りはどうしようもない。彼からは得るモノがない。彼には次作がない。
「私はあなたなんかと違って自分を客観的に見ることができる」という総理コメントには笑ってから寒くなってやや震えた。まるで呪いを遺す死者の台詞だ。
どうか、次の人間は、デロデロになってもヘロヘロになっても都度凹んでも構わないので、白い顔を隠さず取り組みを続ける姿を見せていただきたいものだ。所謂トップが、そうした人間的であることを見続ける必要が我々にもある。

以前より世代による感性、感覚の差異には増々大きなものがあり、表現でも治世でも家庭でも、国籍が異なる程の状況が広がっていると考えていたので驚きはないが、自らを含む世代スタンスを考えるとやはりシニックな厭世の総体が浮かぶ。老いと共に進行する「わかっているふり」の傍観老人たちの箱庭フェチを、大人の成熟と呼ぶ気はしない。老成は青年に宿り、老人は幼稚化すると諦めたくはないものだ。
時代は華やいだ「ハシャギ」ではなく、自省を促す「息災」の持続を第一に求めているのであり、一方でこの持続形態に全体主義的な理念を打ち消す思想が、個体の権利と尊厳に裏打ちされた手法で、根気よく継続させないと、唐突な異変でゼロに戻り慌てることになる。
人々は最早熱狂しないのではないか。独り立つ者は、遠くへ届く声(大声ではなく)で、共感を求めるためのレトリックの言葉でなく、「私」を虚偽無く表明しなければいけないというわけだ。だから我々は、その声の判断を左右の「良い」「悪い」という二項対立割合から選択するのではなく、澄み切った聴覚で「それは何か」を捉えなければ、彼が何を言っているのか、いつまでたってもわからない。


業務協力を行っているユーボートの制作室が8月半ばに後楽園に完全移転したことに同調し、こちらの恊働業務環境を後楽園に併設することになり、8月後半は撮影スケジュールを詰め込んでいたので、今月に入ると同時に設備環境を切り離して設置。完全なものとは言えないが、シンプルなシステムを誂え、ようやく稼働可能な状態へ準備することができた。
DTPの老舗ともいえるユーボートのシステム環境と、画像、動画、ウェッブ通信データ構築処理が主体のこちらとの二本柱に、発想のコラボレートを加えて、より互恵性を強化したスタジオとして機能することを目的としている。
そもそもこちらもユーボートのクリエイターも美大出身者で、似た過去を共有していることが、こうした形態をひねり上げたのだが、出来事を目の前にする、目撃することではじめて、見えることへの取りかかりの認識が生まれるように、様々な傾向の人間が現実空間で錯綜し、互いをリアルに捉えることで、自らの観念も影響を受けて、変容を余儀なくされる。そういう意味で、前向きに、また戦略的にこの環境を機能させねば勿体ない。
現在、各位の業務を環境に全的に統合する段階ではないので、こちらは業務内容に沿って後楽園と勝どきを行き来することになるが、伴う移動・歩行の時間が増えると考えれば、ここにも新たに見出すことはある。
問題は、共有空間における音響の処理だったが、パーソナルフィールドスピーカーPFR-V1で対応。

TG1にストックしたままだった、6月からの動画スナップの断片を吸い出して、併置を眺めると、3ヶ月ほどの時空が、言葉の説明を超える描写力で圧縮伝達され、動画の力を再確認する。
散漫に放逸蓄積させたHDデータを、種別分けし、機能性のあるストックデータに仕上げる必要があり、古い速度のHDデータの移動に時間がかかった。整理は基本的に嫌いではないが、日々整頓ばかりに頓着する気質でもないので、こういう偏りのある時間が生まれる。