枝を見上げて、いわば固有な文脈の走りの様相を把握するようなその眺めに溜め息をついている。
 植生の枝振りとは、光を求める単純な「かたち」だが、その自由がかたちに溢れており、時に唐突に切断されている。

 あの枝先と指差したものが、交錯結合することがないのは、派生とその成立を支える植生の個体の性質によるからだが、人間の血液を流し送る血管とも似たゲシュタルトの、そのひとつひとつの先端自体が、個体の成立を想起させる。ひとつの文脈の辿りが固有であることを疑わなければ、その枝先はひとつ空間を突き抜けて伸びるだけであるということは、見上げた枝々の有り様が示す通り、認識の確かな手応えがそこに見て取れる。例えば盆栽とか街路樹の移動とかの枝きりによる個体植生への浮石沈木な管理の傲慢な恣意には、個体自由への抑圧以外を感じない。でも、それはどうでもいい。メタファとしてではなく、現実の仕組みとしての、文脈の基本というものが、枝ぶりに健やかに眺められるだけのこと。それが、ひとつの工夫としてこちらには必要であるということにすぎない。

 1万時間による関わりにおける人間の技術の達成ということをどこかで目にしたが、枝文脈は留まる事無く光を目指すのであって、可能なかぎりにおいて継続される。そういう意味では、1万時間という査定自体、拙い教条と聞こえる。日々認識の外縁で、あるいは知覚の届かぬあたりで、人間の生においても、枝が光を求めるような固有な継続が行われていると考えるのは自然。だが、案外無頓着にこれを都度失念喪失している。固有の継続の本質が何物であるかを、絶える時迄知らずに過ごすことになる。それはそれで幸せという生もある。だがわたしの工夫は、この継続を日々の知覚に備え持つ知恵に与えるべきだと、今更に、また枝振りを見上げる。最近は、その眺めが層となり実に繚乱な奥行きに、なるほど現実は交錯しないが眺めの中では見事に重なり合っている。縷々綿々と囁きも聴こえ始め、それに頷くのだった。

    分枝(ぶんし、英: branch)とは、本来は植物の茎が先端に向けて伸長成長する際に、その先端の数を増やす現象。あるいはそれによって生じる枝分かれした茎、及びその様子のことである。また、その延長として先端成長する構造においての同様の現象をさす。菌類の菌糸、サンゴの群体等にも適用される。
    一般的にいえば、分枝を生じるのは次の二つの場合である。

  • 先端の成長する部分が分裂等によって数を増やす場合。
  • 成長する先端より下の方の側面から新たに成長の先端が生じる場合。
  • 前者の場合において、分かれる成長部分が同等のものであれば、枝の形は二叉になり、そのような枝分かれの事を二叉分枝という。それに対して、主たる成長部分がはっきりしており、これに対して大きさに差がある横枝を出す場合、主軸と側枝の区別が生じ、これを単軸状分枝という。一般的な感覚では単軸状の方が普通なように見えるが、多くの場合、二叉分枝の方が原始的な形であると考えられている。つまり、大きさに差がない分裂によって分枝が生じる段階から、主軸が区別できる形が進化して来たと考える。この様な判断は、維管束植物の枝や葉脈、あるいは糸状の藻類、菌類の菌糸などでも行なわれる。維管束植物の場合、もともとは茎や葉の区別は存在せず、二叉分枝した枝のみであったと考え、それらの変形で現在見られる様々な形態のものができたとするテローム説があり、ほぼ定説とされている。

ー wikiより

植物のたどってきた道 / 西田治文
陸上植物の起源と進化 (1977年) / 西田誠
植物の生存戦略―「じっとしているという知恵」に学ぶ / 植物の軸と情報」特定領域研究班 (著)
植物はなぜ5000年も生きるのか / 鈴木英治