「壊れ」の前には完全な完成体であったのかと考えれば、それぞれはぞれぞれの文脈においてさまざまに破綻していたと考える。では、修復によって、「元どおり」に再現するのかと加えれば、別の次元を創出する以外はない。
壊れたプラモデルを元通りに直すことは、そもそもしなかったと自分の幼い頃を憶いだす。修復という局面は多岐に渡ってあるけれども、それはどれもどこかで修復しきれないセンチメンタルを内包する緩さに於いて成立している。綻びは絶えず潜在的なものとしてどのような実現に於いても存在している。時には見て見ぬふりをし、時には堪え、時には大声で間違いを叫ぶ。土台、完全な形態というものは幻想であって、平穏無事、息災と見えても感じても、それは如何様にも綻んでいると見て、いわば大小問わず壊れている現実を、これが現実だと示す傾向が、そもそもこちらには以前よりあった。
だが、なにか見せしめのような勢いとも感じられる今回の災害破壊には「徹底した壊れ」が差し出されている。この時に、その「徹底」的な様相を検証して、どのような「徹底」であるのかを列記してみる以外に、そうした並列をあるがままにして共に生きる社会とは何かと考えざるを得ない。「同じことが再び起こったらどうする」という手法は16年という時間でそれなりに対処されて来た筈だが、「同じこと」など起こらない。都度、新たな局面にしか対峙できないと知ったわけだ。
ここ数日眠れずに考え続けていることは、つまり長い間、自分自身が自己責任において追求すべきと感じながらも、どこかでまだいいと、横に置くような仕草だったことへの憤りと、今更にまだ遅くはないと、どこからか知れない踏ん張りを与えられて、固有なる者とそうでない者との無関係である故の姿勢を共有する空間、つまり具体的な倫理の構造を、判りやすい明快な眺めとして創出すべきだという切迫そのものであり、未だ力強い道筋が見えない。
いずれにしろ、社会的に機能してきたと信じられている様々な状況や立場が、実は脆弱な依存にいおいてこそ成立していたことが、強く認識された。極端に考えれば、本来は自立していると思われる社会の末梢神経の役割を、分担するのではなく、トータルに渡り持つべきなのかもしれない。とここまで考えて、おそらく共同体の営みの黎明期には、分業などあったためしはないと気づく。
例えば、医師という業務によって育まれた成熟は、教育教諭や、企業のリスクマネージメントへの示唆に富むこともあるだろうということを具体化して、潜在的な社会機能の素質を、実質的に機能させる専業主義からの離脱の時がきている気がする。