書棚の向かいにある硝子戸の棚の下の段に、あちこちから拾い集めた石を並べてある。大きなものは外の物置に置いてある。同じようにこういう馬鹿げた収集する人間はいる。変成した化石を求めた山道では10キロほどの塊をリュックに入れて汗を流して下山した。海辺の浜や、河原で何気なく手にしたものをポケットに入れて持ち帰り、時にはそのまま忘れ、時には机の中央に置いてしげしげ眺めたけれども、それぞれをどこで拾ったかなどもう薄れている。だが私にとって石はいいものだ。片付けはじめていたものを脇へ寄せ、まず机の前に並べた。
家人が叫ぶように気温の低下を嘆いている寒中の日々、こちらは寒さなど別に厳しいと感じない。そういう身体なのだろう。深夜外が零下に下がっても、時折ストーブを消して過ごしている。だから平気さといって予定していた雪原へ出向く撮影計画を、低温吹雪の中決行する意気地もうまれなかった。淡々と目玉で遣るコトもあった。
そろそろ移動の準備をはじめた日中に、結局春になりそうな撮影の、それでも予行演習をしておくかと庭に出て、雪の被った鉢置きに使われている壊れたような台を引っ張りだし、机に並べたものからひょいひょいとつまんだ幾つかの石ころをそこに並べて、カメラを向けると、台上が白く輝くような錯覚があった。見上げると曇天で太陽はみえない。
この研磨の丸みは、打ち寄せる海水や渓流の冷たい流れで、測り知りようのない時間の中うまれたものだと、はじめて石を眺める観測者の尻で庭に座り込んだ。それにしても丸いなあ。人間の手のひらで握られるように、その為に研磨されたように丸い。雪の積もった庭で、ぴちゃぴちゃとおそろしくゆっくりと研きだす水の流れの形に耳を澄ませて、おそらく何度も静かにシャッターを押していた。遠くから通末の子供の燥ぐ声も丸いカタチに吸い込まれた。
一晩このままにして、雪でも被った明日にもう一度カメラを向けてみるか。零下の外気で凍り付く石ころが少々気の毒な気もしたが、そんな思いを部屋に戻って苦笑して払った。
午後に崩した身体で寄せ集めた音響は、おのずと累々とした彼方を手元に集める態となり纏まりもなかったが、これも今、本日の石ころとの照応。あっさり(どこか石に似た)耳に任せた。
夕食のあと、暗く冷え込んだ庭にサンダルで出て、洗面器の水を台の上の石ころに流し落として家の中に戻った。