ダム建設が予定されている谷を抜け扇状地が広がりはじめた川縁に育った家があるので、この川沿いを長い間行ったり来たりしている。一年ほど前に下流から上流へ向かって遡って進行していた河川敷工事が終了し、それまでのこちらの知るほぼ半世紀ほどの、湾曲する石積み堤防の岸辺の眺めが一変した。もとより大きな流れではないが、新生河川敷も、僅か一年の流される土石や新たに取りついた植生に覆われ、剥き出しのコンクリートも淡く形を潜めるようになった。いずれ日本海に流れる千曲川に注ぎ込む川のひとつだから、割と上流に位置するこの扇状地から千曲川に向かっての傾斜地と、その十数キロは離れた対岸の似たようなせり上がりの土地が、大気の済んだ季節にはくっきりとした眺望となって、地勢の実質的なものを把握する助けとなる。太古より眺めれば、この地方都市は川の中ともいえる。
川沿いを下流に歩くと、川底が地を削る様相が激しくなり、川自体の流れも増して、大水の際は甘い堤防では決壊するわけで、川に対して近接する家々の川への距離と不安が、その堤防の仕組みや近接する家のつくりなどに率直に現れる。下流ほど堤防の土手の上から川底までを深く覗き込むようになるが上流の、数段で川底へ降りることのできる階段には、大雨の時は別として然程恐怖心というものは見えない。河川工事の行われる前には、遠くから車で蛍を見に来る人もいた。半世紀前は水を引く田畑だらけの家の無い扇状地だったが、変異する川の幅を考慮せず、ぎりぎりまで新開地として宅地化させ、そのために切り売りした田畑も挙句消えたから、脇へ逸らす農用水路も減り、幅の固定された川は底を深く削り、一時は垂れ流しの下水川として汚染した。
停滞の水平面、森の中、あるいは、風の丘ではなく、この流れの脇にて幼少からの成長期を生きたことが、骨身に染み渡って自身を形成したと、しみじみ感慨に耽るように川沿いを歩いたのだった。そういえばこの場所に来る前の山間の村の借り家の横も、土尻という流れがあって、それぞれの川は同じように一度づつ人が流された。
地学的な構造の意味では説明のつかない川の流れが、この場所から離れても身体のどこかに組み込まれたのか。意思の萌芽、あるいはさまざまな決断のあれこれの横を、確かに小さな川は流れていた。
川に依る傾斜地という足下に取り付いた土石や植物のような、この固有を、もう少し時間をかけて探るのも、日々の癒しとしては上質な部類に入る。