正午すぎに仕事を終えて帰宅し、ランチは駅弁にしょうと我慢して、娘らと重い荷物を背負って炎天下東京駅に向かう。長女は深川弁当、次女は鳥飯を選びホームで購入。こちらは車内で、釜飯を購入。お盆に入る手前とあって、途中より通路に立つ人が増え流石に混み合った。
雲がちだが、風自体が涼しい街に降りて、ほっとする。
持ち込んだ本は、堀江敏幸「河岸忘日抄」のみ。映像がこれほど豊かに浮かぶこの国の小説家を他に知らない。巧みだが、繊細すぎず、飛躍や独我を抑制する手法がそれを支えている。
夕食の後、小雨の降る中傘をさして、娘らと書店まで歩く。
長女は、CDを6枚ほどレンタル。次女は漫画を3冊購入。こちらは以前観た記憶も淡くあったが、「バスカヴィルの獣犬」と、The Salton Seaを借りて、また小雨の暗い夜道を歩いて帰宅。
化学療法中の母親は、思ったほどではなく安心する。庭に降りた弱った山鳩に、水を与えた次の日の朝、身体を冷たくして横たわっていた話を、母親と父親から聴く。
足首に疲労が痛みとなって疼く。
Young Adamと河岸忘日抄が見事に重なり、The Salton Seaの、弱き不完全な主人公が、堀江敏幸の河岸忘日抄、ノスタルジアの描写とこれまた重なるのだった。偶然の享受がこちらのどこかで内側に跳ね返って照応するだけなら、奇妙な符号で終わるけれども、自らを正確にみつめる孤独という意志、態度に宿る、人間的な意識の普遍性の構築(倫理の提示)へと、移動させるようにこちらを促す力となると、そこになにかしら意味を見出さずにはいられなくなる。
小雨の降りしきる深夜、既に秋のような涼気に首筋を撫でられ、一度は横になった身体を、冴えきった頭が起こして、The Salton Seaという狡猾な作品をキッチンで珈琲を飲みながら観たのだった。こうした作品を眺めると、制作ユニット全体の人間性がこちらに染み渡る。キャスティングも凄いが、固有性を売りとする俳優を自在に撮影する監督にも、新しい世代の作品制作メソッドの正当性を感じる。これはDVDがほしい。