言葉がLyric(歌詞)、詩として、メロディーに乗って巷に溢れ、言葉と音楽の併置関係の技として我々はこれを自然に享受しているわけだが、映像と言葉に置き換えると、映像と音楽の親近感から、やや離れて、言葉と映像のビジュアルコミュニケーションとしての顕われに目を奪われてしまって、何かを失っている。言葉が言葉本来の音の響きをもって、自立する環境を探すのは、(あるいは構築するのは)昨今なかなかむつかしい。
日常のやり取りや発作的な反射のような話し言葉等は、時代のながれで、どうにでもなっちまって構わないが、魂の通った言葉というものを聴く(発声する)機会は、練り上げられた映画なのかとあれこれ探索はしたけれど、どうも違う。
映像が、蒙昧なイメージを錯綜させて、夢にまで引きづり込んでも、吃音者の逆説(彼等には発声の手前に言葉が溢れている)で、ワタシは言葉の喪失感が広がっていた。自由であるということは、beyond(彼方)を指向するが、言葉の杭を、その手前の空白に打ち込まなければ、その自由の実感が湧かないというのは、なにかバーチュアルなギミックに立ち尽くしている幼児のようだ。VE05の骨格の理論検証に足りない脳みそが痛む。