God Divaの、複雑な構築手法の新しさは、素材のイメージの統合を示すものではない。荒唐無稽な物語の、所謂自由度構築(良きの白悪しきにしろ)の、徹底したビジュアル化の欲望に、潔く時間と金と技術を注ぎ込んでいる姿勢が新しいのかもしれない。FFのような、コンセプチュアルな制作(CGありき)のトップダウンの手法は、いわば最初に限界を設けるようなものだが、物語主導の制作手法に制約を与えないスタイルは、現在の人間の知恵がふんだんに生かされる。この姿勢も映像のニュアンスと相まってヨーロッパの自立したポストコンストラクション(これは何か帝国的でもあるが)を感じる。個人的に新鮮だったのは、ベンダースやタルコフスキーもしばしば引用する、人間の言葉(詩)と映像との関係の力で、ベンダースが事故で不意に訪れた死に際の人間に、言葉を与えるような仕草と似た、この言葉の力を、各所に蘇生させていることが印象的であった。監督のエンキ・ビラルの力というよりも、制作のデュラン・スタジオ(仏)の4年間(新世紀の仕事と自覚したに違いない)の仕事の姿勢が、端的にこうしたクオリティーを顕わしているのだろう。監督のビジュアルにも色濃く反映されている大陸の哀愁は、国境によって形成されているだろうが、EUとして経済的な統合がなされても、人間存在の孤独観は、ニューヨークなどと違って、現在も緊迫感がある。だがその力は本来的な人間の他者性を示して魅力的だ。DVD, / Duboi-Effects spciaux pour le cinema


God Diva Limited Editionが、届いたので、メイキングやインタビュー等、仕事をしながら、モニターで流していた。エンキ・ビラルのアトリエでの、創作のシーンが印象的。コミックやイラストで、固有なキャラクターを創作するという日々の反復から生まれた、集積体の世界の映像を欲望するという、作家ならではの、作家でなくては理解できない醍醐味、歓びを彼の眼差しや、筆先の動きに感じるのだった。メイキングは思ったよりアナログ。1500枚のデッサンが下敷きになっていることが、重要であると思われる。制作にかける時間も大切だ。エンキ・ビラルという特異な響きのある名前の出自は、やはりユーゴ。このメイキングは、或る意味で、フランスの映画興行のローカルティーが滲んでいるので、面白い。デュランスタジオが実写とCGの合成のために12のアプリケーションツールを開発した、フィルムハンディキャメラのパンやチルトの動きに連動させる技術は、キューブリックのフルメタルジャケット制作(ショックを吸収するキャメラを開発)と似た意気地、意気込みを感じる。すべてFFのようにCGで仕上げるほうが、楽だったらしい。