「最初に、私には、言語が、それ自体で十分なものだとは決して思えない。こう考えるかぎり、シニフィアンというようなものはないのです。言語は記号から成っているが、記号は、非言語的な、全く異質の要素と切り離すことができないのです。この全く異質の要素は、「物の状態」とよぶこともできるし、もっと良いのは、「イマージュ」とよぶことでしょう。ベルグソンが実によく示したように、イマージュは、それ自体で存在をもっている。私が「言表行為のアレンジメント」と呼ぶものは、それゆえに世界の中で運動し、移動することをやめないイマージュと記号から成っています。(中略)
私が今、映画について研究しているには、このような問題点の延長上なのです。映画は、記号とイマージュのアレンジメントです(サイレント映画でさえも、やはり言表行為の様々なタイプを含んでいる)。私が映画について試みているのは、映像と記号の分類の作業です。例えば、運動イマージュがまずあり、これが知覚イマージュ、情動イマージュ、行動イマージュに分けられます。もちろんもっと他のタイプのイマージュもあるでしょう。それぞれのタイプに、様々な記号、声、言表行為の形態が対応するのです。こうして巨大な分類表が必要になります。様々な巨匠たちが、それぞれ独自の傾向をもってこれに参加しています。」
ージル・ドゥルーズ : 狂人の二つの体制/言語をめぐる宇野への手紙より抜粋
1964年の東京オリンピックから4年後の1968年から1971年という時代設定のシルミドは、事実に基づいているとしても、政治的な背景の描写や、関わった個々人のリアリティーには首を傾げた。映画と云うエンタテイメントに歴史を使う時、軽はずみな短絡は、省略。削除に近い誤解を孕み、事実のボリュームを喪失させてしまうものだ。こちらとしては、記憶に手が届く時代を、大雑把な解釈で完結させてほしくない想いがある。同時代のこの国の学生紛争なども、掘り起こせば、権力・思想闘争ではない、大きな人間的な塊があるはずで、私達は、むしろそういったモノを眺め直す必要がある。歴史の描写はだから、普遍性など持ち出す必要はない。