The Elements of Styleという英米住宅の1485〜チューダー、ジャコビアンからポストモダンまで散漫に網羅したデザイン事典を捲り、住宅の壁、天井、床、階段等等の各時代の意匠を眺めていると、これらのスタイルは、いかに余白を埋めるかということが前提なのだと今さらに知る。余白に我慢ならなかったというより、こちらからみれば、余白にイメージを喚起できなかった生活者の無能の証とみてとれる。装飾の意味は、だから墓にこそ必要で、進行形の生きた空間には、時間を凍結させるこうした封印じみた装飾はマイナスであって、日々反射と代謝を繰り返す瑞々しい肉体の跳ねる空間は、余白にこそ意味がある。余白といっても、何も無いということではい。構築された余白でなければ、空間が人間的に機能しない。
時間とともに変化することを前提に物事を構築する手段に一瞬を投じることしか、我々にはできないのだから、せいぜい躍動感のある、嘘の無いリアリティーそのものである一瞬の選択を信じて、装飾ではない空間構築を続けたいものだ。
最近、一枚の絵、光景、イメージということに辿りついた。折しも、都美術館で開催されている「フィレンツェ芸術都市の誕生展」の20歳頃のミケランジェロ作と最近認定された、「磔刑のキリスト」(41cmのシナノキ材の木彫)の印象が、その決定を支えた。2002年の冬のリヒターへのオマージュを、フィルムで、再構成することになるだろう。多分monalisaということになる。