Gentaの脚本の可能性を考えていた。今日オレたちには、ツールとして現実性(リアリティー)を構築する手法を探すに苦労しない。だが、コト「現実」は簡単に見極めることができそうで、できないものだ。携帯やデジカメで瞬間を腐るほど切り取ったとしても、データメモリーに圧縮されていくだけで、むしろその瞬間は遠ざかる。伝える相手がいそうでいないのと同じ。時代に流され易いのはいつの世もこれも同じだが、雨音に記述されている寓話は、フィクションである故の可能性はある。そして、何かの起点となる。言語を扱いながら、言語でないコトを孕む試みの成熟は、おそろしい飛躍を齎すことがある。映像の為のものであっても、ひとつの静止画像に辿り着く場合もあれば、あるひとつの行動を促すこともある。クリエイティブであるということは、こうした放下(ゲンラッセンヘイト)を、躊躇なく思考し実践することであって、端末に引きづり回されることではない。それにしても、美しい空だ。皆誇り高く固有であれ。