長女がUtada Hikaruのアルバムを買ってきたので、早速聴かせて貰う。時代の変化を感じる。無国籍な作品の完成度を楽しむ。こうした時代になったんだなと感心した。こういうものを聴く娘らにどのようなモノが芽生えるのだろうか?聴き込めよ。
立花隆「シベリア鎮魂歌ー香月泰男の世界」を読みながら、立花隆の原型を知る。
最近自宅近辺をカメラを下げた老若男女のグループが徘徊している。そのカメラが、また凝っていて、二眼レフとか、ライカとか、デジカメが少ないのはなぜ?
ライカと書いて憶い出し、書棚から赤瀬川源平の写真集を取り出して、Exodusを聴きながら眺める。Gentaもフィルムに目覚めたようだしと、このところの彼のphotologをも一度ひらき、そういえばとIkedaのロンドン滞在時のフィルムスナップ、tsurutaのDOGSのもの、Ushiyama, Ono君とつづける。これらは、実際どのように人々に届いているのだろうか。
つまらない写真家は、写真に没頭していて他がみえないもの。オソロシイ写真家は、おそらく世界に没頭している。反復は、そうしたコトに気づく生活となるから、一枚の静止した光景という、二次元のイメージの豊かな力を、皆で忘れぬように生きたいものだ。
それにしても、最近のTV番組には辟易される。これまで見えないように工夫されてきた悪しき圧力が、臆面も無く表面に浮き上がって、それが当然のようなふてぶてしさで、つまらない雛形の繰り返しをゴリ押ししている。オリンピックの後だからだろうか。観る番組というものがみあたらない。
BARは、どうも、こぎれいな空間ではだめと気づき、探しはじめているが、場所がない。そういえば、歌舞伎町の地下3Fによい店があったな。