8/2付けの長野市民新聞に興味深い記事が掲載されていた。
1897年(明治30年)から1926年(大正15年)までの、長野市の近代化に関する記述で、豊橋技術科学大学の浅野氏が書いている。丁度100年前の都市計画をグラフィカルにまとめてあり注視に値する。
ーなお、道路ネットワークの追加経過を見る限り、市街地が面的な広がりを持って拡大したように錯覚するが、実際は道路ができるたびにその両側に建物が張り付いた線的な町が追加されるという形で広がったのであり、今日の土地区画整理のような街区割りが進んだのではない。(中略)官庁施設や文教施設といった政治的文化的趣向の強い施設はほとんどが善光寺に近いエリアか参道の西側に立地し、遊郭や遊興系施設の多くは参道の東側に立地している。つまり、都市基盤と土地利用の双方で、善光寺と参道が市街地形成の基準となったのである。このことは、善光寺と参道の存在が当時の人々の空間認識や都市計画認識に大きく影響したことを明快に説明するであろう。長野市は戦災都市ではないから、この旧市街地はそのまま現在に引き継がれているのである。ー(記事より引用)
寺の意味等を申し上げる立場にないので、よくわからないが現代の都市計画が、例えばランドスケープデザイナーと行政側がタッグを組んで住民の意見を吸い上げてより良い形態で進行しているかというと、おそらく不透明に、根拠の無い決定と頓挫を繰り返しているに違いない。全体主義的な力がなければ理念遂行はむつかしいが、環境を考える開かれた健全なシステムが構築できないものだろうか。この街の「寺」ではなくおそらく「参道」という意味は、過去より未来へ普遍的に考慮すべき重要な要素であるのだが、現在のそれは、冷や汗が流れる代物でしかない。と、今日は、この参道を解放して狂い踊る「びんずる」が開催される。姪っ子のちーちゃんは踊りまくるらしい。私は行かないけれども。