ある正しさを「信じる」というより、それに慣れてしまっているといっていいだろう、日常の生活する人間の姿勢は様々だ。それで結構。差異に満ちているからこそ、自らの知らぬ内のそういった信仰に対する不安を、他者と摺り合わせて解消したり、あるいはまた素直に修正をするものだ。そういった行為に歓びを感じなければ、人生は孤独だ。だが、中には、この知らぬ内に身についた「正しさ」への信心が、深く自らに根を下ろし、他者へ自分自身を強要していることに気づかぬ輩が必ずいて、こうしたエゴに触らぬほうがいいので、逃げることにしているけれども、視野に入るだけで腹は立つ。差異を理解できずに皆が同じだからと考えるバカが結局人間を差別する。同時に何の根拠も無い自身の正当性をただ闇雲にゴリ押しして人を傷つけている。悪とはこうしたことだったんだなと最近考える。悪人はへへへと笑って人を殺すわけないじゃないかと子供心に思っていた。悪人退治とはだから、なかなか簡単ではない。ここ東京は、そうした悪の都合が蔓延している。悪が巣食う場所だとつくづく思う。健やかな正しさは、だから、自らの不完全な正しさを常に修正するために他者を求めることでしか、育たない。ふとした気分や情愛で、悪も揺らぐだろうが、揺らいでも軸の移動がなければ、もとのまま。それは正しさを求める姿勢と決定的にズレている。だから騙されないように気をつけよう。