朝方、環境の記録DVを幾度か眺めて、システムの挿入をイメージする度に、そもそも場所の象徴性・意味性の強さに対して、借景する側、つまりこちらには、環境介入の正当性、配慮が必要なのではないかと考えて、途方に暮れた。何処にでも無造作に、簡単に置くことができるプロダクトであれば悩まずに済むが、併置のイメージが微妙な差異で反復し当惑している。擦り合わせの不可能な事象をその両極から得心へとまとめて眺めるつもりはないにしても、併置が関係を生み出すとか、無関係に対立するとかは、結局、人間的な享受の器にあることだから、横においてしまって、もう少し「場」そのものを抱き直さねばならない。この場合の様々への関わり、Correspondenceは、一致ではなく、照応ということになる。