ほうぼうから次女の具合を心配するメールや電話をいただいた。ぶつけた頭にはタンコブがあり触れると痛みもまだあるようだが、脳内出血などによる嘔吐など二次的な発症は今の所ない。火曜日に診察して様子をみる。本人は元気。心配していただきありがとう。今後できることはすべてやります。
昨夜は夜明け前まで眠れずに、結局深夜から、仕事を放棄し、借りたままだったGary Walkow/Beat(2000)を観る。主演のCourtney Loveに惹き込まれた。続けて朝まで観た、THE USUAL SUSPECTS(1995)のデタラメな脚本と監督の態度には腹を立った。X MENなどに成り下がった、Gary Walkowに期待はしていなかったが、こういう罠には悪寒が走る。
このところ乱読に近い状態で観ている映像や物語など映画の約十年間の作品を比較してみると、制作側の知性、態度に非常に大きな差異が顕われている。対立構造を殊更に単純化して描くことを蒙昧に続けるツマラナイものと、現実感の併置に徹しながら、倫理や正当性を問うているものに分けることができる。例えば、銃のリアリティーの問題。このところ印象的なものは、出鱈目に引き金をひかない。キルビルの失敗は、表現が時代の嘔吐感にそのまま繋がったからで、The Dead man walkingといった、地味で繊細な出来事の掘りさげをメッセージとする大衆娯楽と微妙にズレながら上質に構築されたもののほうが、二度三度の反復鑑賞に耐えることができる。そして、都度、所謂興奮を突き付けるのではなくて、何か新しい態度、考え方の根本を揺さぶって、本当にそれでいいのかと迫りながら、自らの抑制力やしなびた思考を喚起させてくれる。むつかしいのは、固有な事象が偶然にしろ、必然にしろそれなりのコンテクストがあり、その流れを止めるように事象の表象を簡単に記号化させて、構想する側の発作的な操作自体を突出させると、抑圧的な独我となって癌細胞のように環境に寄生する怖れがあるから、事象の顕われのあるがままをトータルに見極めて整理し、構想の決断をそこに率直に与える力が必要となる。だから作品等を美的であると言う時、勘違いをしていると、単に軽率なスタイリッシュであることしか見いだすことができない。私にとっては、映画作品という総合芸術から学ぶことは、規模の大きな共同作業で提出される、人間的なスタンスという倫理しかないと最近考える。
明日(23日)から三日間に渡って、神楽坂のdi pratzeで、毎回午後7時よりNIPAF04東京公演が行われる。私は今回は行くので、興味のある方は、会場で会いましょう。