Christophe Charles(1964~現武蔵野美術大学助教授)の1998年の発表コンセプトが確か「無関係」{un(related)}だったと憶い出して、サイトで確認してから、1993年のLet it Hold iteself Upを聴きながら、彼のテキストを再読した。(以下抜粋)
ー「私が感心を持っているのは、意図的に無故意の作品を創造できるかどうかの問題となる。「文化」と「意図」や「故意」、また「決意 」という概念を再び定義しなければならない。作品の制作方法に対し意図やコントロ ールが介在しないよう、また感じられないようにという点に私自身の強い関心がある 。つまり、未決定、未解決、決定不可、無色、無味、風味のないものに関心があるのである。言い換えれば、動物的な、植物的な「作品」の創造について思考を巡らして いるのである。
身体には空間と時間(の余裕)が不可欠であるから、意図的に、余裕の欠落を回避し たい。だが、常に作品というのは人工的であるから、人間の意図はどこかで生じるわ けである。従って、その意図をどのように、どの段階で扱うかという問題となる。例 えば、意図を増やすこと、組み合わせることには、一つだけの強力な意図による方法に比べ危険性が減少すると予想される。それぞれの意図の力が分担され、そこで生じ た力は「平静な」力に変容することがある。」ー
ー「日本の特徴の一つとして、島国であるため、 いわゆる「現代芸術」が行われている西洋とはかなり地理的に離れている。マスメデ ィアのプロパガンダにおいてもその「離れた感覚」は事実として取り上げている。現 在の交通機関のお陰でアメリカ西海岸及びヨーロッパまで10何時間しかかからないに しても、作家の活動にとっては海外の芸術的なイベントに参加し、異なる背景の作家 との交流などにおいても無視できない困難であり、その現況は日本の現代芸術への価 値観や関心、好奇心までにかなりの影響を与えているだろう。」ー詳細
このところ、テキストの確認をするために、小さな声で(朗読とまではいかないが)読んでいると、閉め切った夜中の部屋に弱く反響するのだろうか、読経をしている錯覚が起きた。(そういった経験はないが、何か心地良い) 声という固有な音によるコミニュケーションは、本来場所(空間)と個体が、密接に関係して発声される。非常にデリケートな手法であり多様なのだろうが、現代の社会環境の騒音で、そういった感覚が破壊されて久しい。学校の先生や、政治家は怒鳴りながら喋り、家族は同じ事しか繰り返さない。言葉が声となって発声されて、環境と結びつき、自立することを、クリストフ・シャルルの云う「植物的」、虚飾と意図を離れた率直さを前提に、WATER DESKに加えることにする。これは勿論音楽ではないし、朗読でもない。破壊された身体性の回復に機能する。
Christophe CharlesのCDをamazonで確認したら、ふたつが在庫切れ。仕方ないので、Oval & Christophe Charles CD (1998/01/20) を購入。ついでにPhilip-Lorca Dicorcia (Contemporaries) / Philip-Lorca Dicorcia , Peter Galassi も購入。