そもそもフランスなどヨーロッパ大陸には、ナポレオン以来アフリカ等を搾取植民地化してきた文脈で、わけのわからない他者と向き合う歴史が長くり、陸続きの国境を線で区切っている(なんとも凄まじい)し、多様な異国籍の人間の就労を当たり前に認めるなど、Othersという、絶対的他者と無関係に向き合う中で、思想が育まれたわけだ。一方、一部のRadicalistを除いて、この国には、Othersという概念が大衆倫理として培われてたことはない。ジャン・ボードリアール「消滅の技法」をまた地下鉄で捲りながら、彼の云う写真というRadicalな手法は、世界の他者性(無関係性)を即座に手に入れることであるから、主観でコントロールする「よくできた」写真術は醜いという立場に共感するにしても、単独言語に縛られ、集団で妄想しながら他者性を勘違いして外側に排除することで成立してきたこの国の無気味な精神環境社会を生きる者と、本来的に立場が違う。彼らはヨーロッパはアフリカを理解したわけでなく、絶対的他者として内側に取り込んだまま、理解することよりも、差異を温存する手法で異質な世界を併置しているだけ。気味の悪い地下鉄で、再度環境を確かめていた。仮に「関係性」を強調するこの国で、無関係性というRadicalismが、静かに言説や表象に顕われるとしたら、それはこの脈絡ない個々の生活というものが、石ころのようにありのまま並ぶだけだろう。
「仲良し」という言葉は嘔吐感が伴う。全く同じ意味で、恋人たちの接吻を街角で眺めても吸血蚊に見えて、普遍的な「愛」を感じる事ができない。日本語などいずれ出鱈目にミックスされて溶けていく運命だろうが、このところしきりに五月蝿い選挙演説の稚拙さは、中学生の作文演説のようで哀しい。もっと自身のことを言え。ニュースにもそういう意味での他者性がない。東京に向かっ腹を立てながら、WATER DESKのための準備として、CONTAX T2を三脚に取り付けて、ファインダーを覗かずに、露出とフォーカスを決め撮影することをはじめた。レンズの高さは次女の視線程度か。
他者が隣に存在する世界は、緊張感が絶えず伴う。身の危険があり、わけのわからない理屈で突然刺されるかもしれない。だから、friendshipの必要があり、言語が合理的に機能し、そういった環境でこそloveが成立する(関係を構築する必要性は無関係な存在の羅列空間にある)。隣の存在を理解しているという勘違いは、近親家族の延長で全てが説明できてしまうから、この国の「暗黙の了解」という倒錯したテーゼを、社会構造としてリストアしなければ、Gentaの憂鬱の原因のひとつである、「なあなあの付き合い」が蔓延継承され、顔つきの悪い大人がグレる。近い将来、陪審員制度(名称は違うらしい)を裁判に取り入れる計画があって、国民に義務化させるという。(年間1万人程度) 特権化される裁判より「公平」だろうが、是非テレヴィー中継をして、あからさまな我々の、前述した同胞幻想(〜じゃないですか。と丁寧に了解を求めるようなフリの話し言葉は、同意を求める以前に自己完結していて会話にならない。つまり最初から受け入れられると信じていることが滑稽)を明らかにして、社会倫理というものが他者性において機能する学習契機とすべきだ。その時はじめて「公平」であることはイコール正義や善ではないことがわかる。変質者を人間じゃないと排除することしかできない、くだらない差別意識が、はじめて「公の問い」になることができる。因に変質者は人間で、犯罪を犯したなら刑に処すだけのこと。犯罪を犯さない変質者は、ただの人間でしかない。「いじめ」はだから、こうした社会モラルの喪失に原因がある。(いじめる側の論理は、自分とは適合しない、自分に不利益なコトの排除だから、企業倫理として平気で使われている場合もある) もっと頭の切れるヒール役のニュースキャスターとかでないかな。どこかの莫迦な都知事は、出自がチンピラだから、肩で風を切ってキザに歩くのを、皆が苦笑いして眺めているのは、仕方ないにしても、毎日TVに出たがるのは血か。水戸黄門しか上に立てないと本当に皆が思ってるから、恐ろしい国だ。本当の意味での政治家というのは、瞬間に変わる、無血革命を起こす事のできる人間だろうな。地方分権化の挙げ句、独立国家として都道府県が国王を揚げて自立することが、唯一のリストアかも。風邪気味。お熱少々あり。