「フラワーチルドレンからバブルまでの流れは、誤解を恐れずに云えば、醜さからの逃走、不十分であることの闘争であり、それ以降は、虚飾の解体と再構成という具合に簡単に考えると、現在は、不完全さをいかに構築するかにあるように思える。キザという言葉が死語になり、良い面を曝すことよりも、欠けていることを曝け出すことのほうが、全てにおいて求められているし、合理的と考えられている。不完全であるとは自明なことであり、今さらどうこういうことでなく、完全であることなどないという立場は、しかし、不完全の放置になり、所謂流れや広がりが生まれない。例えば手首がモゲた時のビジョンが、不自由さに終止するか、新しい身体性を成熟させるか、でその後の方向が大きく変わるように」
昨日朦朧として新宿駅を歩きながら頭を横切ったこの考えが夕方から深夜まですっぽり喪失していて、さきほどまで、「不完全」というキーワードがなかなか憶い出せなかった。総武線の窓から見える好ましい印象の表象は全て瑞々しくも不完全に構築されていた。
GELASSENHEITというハイデガーの概念に80年半ばに取り憑かれたことがあり、再び、「放下」という著作を書棚に探した。「放下の所在究明に向かってー思惟についての野の道の或る対話より」という研究者、学者、教師の三者の対話が当時、タルコフスキーのストーカーの原型であるに違いないと考えたことを、もう一度確かめてみる。
フラワーチルドレン:1960年代後半、反戦活動として、街頭で道行く人に花を配って反戦を呼びかけた若者をそう呼ぶようになった。
醜さからの逃走:安保闘争と経済成長が平行することで、大衆全体には客観的且つ相対的な自己認識が促され、変化するビジョンを皆が知らぬうちに共有した。息子や娘が学生運動で石を投げていた親たちは、確実に身の回りに増える上等な電化製品のある生活が当たり前であるように感じ、そういう意味も含んだ日本改造が進む。
虚飾の解体と再構成:バブルまでの高度成長期は、生産と消費が過剰な生活に、簡単に我々は慣れた。同時に社会の流れに対しての率直な問いが、例えば、外の思想を分かりやすくチャート化説明しニューアカデミズムと呼ばれた浅田彰「構造と力」は、ベストセラーとなり、以降進行する多様な解体手法の受け皿の下地をつくる。バブル以降、構造の隠蔽に対する斥力として、例えばスケルトンなどのように、透明性が表象を代表するようになる。透き通ったこの世紀を振り返ると、殺戮と狂気が敷きつめられている。
不完全:ここでは単に、円を完全とし、始点と終点がまだ結ばれていない弧を不完全と示すだけにとどめたい。つまり理念として未だ辿り着いていないユートピアのような「完全」を掲げるのではなく、完全体を隣に置くことができるという意味での、不完全体ということを、顕すことが、「不完全の構築」と考えた。番長皿屋敷の「〜一枚足りない」というあれに近い。まだ考察が足りないので、メモとして。