本来は植民地下という言語や立場といった状況を示す混血、境界での所属無効となる新しい声明、移動とともにある差異空間などの、所謂クレオール主義を巡る今福スクリプトを湯槽で辿りつつ、なんとも古くさいような、今更自明の道理を説かれているような気分になるのはなぜか。
同じような気分は、村上春樹がイスラエルのエルサレム文学賞授賞式でのスピーチにも感じていた。約90万円という賞金額の当該賞の、欧州系言語以外の作家への授賞は初めてであり、賞歴をみるとSusan Sontag(2001)、Milan Kundera(1985)、Octavio Paz(1977)、と馴染みのある作家も受賞している。簡単に云ってしまえば、村上春樹の翻訳ビジネスがイスラエルで成功したということでもあろうけれども、受賞作家が授ける側であるイスラエルのガザ侵攻を批判したと、一見立派な態度表明のように報道されているが、なんとも頓珍漢な印象がこちらにはうまれた。一方で門外漢らが作家の受賞拒否を申し立てており、これも同様な印象を醸している。

クレオール主義も、武力侵攻批判も、ディスクールが劇化されるだけで、その機能は古くさく、スピーチの下手な(英語も下手な)一人の人間にスポットをあてても、蕩尽される情報社会では、現在に溢れる諸々に洗い流される一過の出来事になる。システム自体がクレオール化する。あるいはスピーチではない創作行為によってでしか、批判は批判となり得ないと作家は認識し、このビジネスで得た読者の住まうイスラエルという場所と自身を結びつける時空を新しい創作構想で示さない限り、システムにとっても世界人にとっても、彼の詭弁な受賞戯言と済ますに終わる。というような気配を感じるから、やはり腑に落ちない。