ストーカーで饒舌で懐疑的な役回りだった男が、鏡では見知らぬ医者として現れるが(時間的には逆だが)、実に印象深い。遠く立ち尽くして振り返るシーンはハリウッドスターにはこなせない。シーンがメタファーに彩られているというと安っぽい。タルコフスキーの作品は、これはこういうことと単純に変換できる比喩ではなくて、都度映像から与えられる想像力によって読み替えることのできる設定の積み重ねといえる。
導入部分の、吃音者のシーンは、以前二通りの、いわば2項対立の意味論の併置と考えて、つまり、ある切っ掛けで大きく変容する前兆と、神秘主義に対するシニカルな笑いを添えて、いずれにしろ我々は囚われているというひとつの象徴と捉えたことがあったが、今回は、吃音者自体の、言語を使う姿勢がただただ染み入ったのだった。同じ事ばかり繰り返す饒舌は聞くに耐えられない。何も伝えることがないから受け取ったことを単に繰り返すというのは犯罪ではないか。人は声や音を聞く時どのような顔をするのだろうか。という問いがあったとして、その時の「聞く」ことが、そもそも自らの許容認識に当てはめようとする場合は音自体は届かない。聞く欲望を露にしなくてはなどと・・・。だが我々は、そういった態度のいずかを選択するのではなくて、様々な聞き方を音の誘導で瞬時に迷妄しながら、印象の中に幼気な耳と老成の耳と青年の耳を宿すことができるものだ。タルコフスキーの作品のむしろ脇役のリアリティーは小津の脇役の余計を作っていないことの提示にひどく似ている。そしてそうした脇役の顔、表情というものが、対象や出来事、声や音に対してまっすぐに伸びているということに気付いたのだった。