わからないことがあるとネットで検索してみてから、本屋へ出かけることになる。「わからないこと」のほとんどは、南アメリカの小さな川だとか、15年前の同級生の名前とかといった、こちらがたまたま知らないことではない。こちらのわからないことにピンポイントで明快に解答を与えてくれる情報はほとんど無い。web検索で数十万、数百万の類似情報が引っかかるのに、検索を絞ると、該当する項目は無いとくる。誰もがこの「わからなさ」を避けている状況に思われる。勿論本屋に出かける事は、webの情報より勝っているわけでは無いから、本屋までの道すがら、当初抱いていた「わからいこと」の軸をずらしたり、カテゴリーを考え直したりとまあ、わからないことによって停滞していた状況を散歩で緩和させるといったら聞こえはいいが、つまり切断して、わからなくてもよいという諦めを、認識に変えることが多い。そして少しは冷えた頭で、自身の甘い選択を更に許して、「わからないこと」自体の存在を示してはいる参考書のようなものを購入し、戻って内容を辿ると、よくもまあこんなものを売り出せると腹が立ち、これもほとんど使いものにならないとくる。コンピューターは、こうした「わからないこと」が少ないので、歩み寄れば、使い慣らすことができるが、ある所で、微妙なバランス(ハードとソフトとか、レスポンスと遅延、デジタルとアナログ)が精神に作用しはじめると、新しいコンピューターのわからなさが生まれてくる。これはとても厄介。テンプレートで溢れる巷が幼稚で子どもじみていると感じるのはこちらだけだろうか。