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先週末、横浜戸塚区の舞岡公園に、市の環境緑地課の職員に同伴して見学に行ってきた感想を両親から電話で聞き、環境の再生の学習を関わる人間皆が学習するという前向きな進み方に、どこか羨望を覚えながら感心する。

ADSLを光としたが劇的に速度が変わったという体感が無いので、なんとも実感がないまま、これまでのプロバイダーを解約する。電話口で恐縮する女性の対応にむしろこちらが申し訳ない気持になる。

もともと記憶力が優れているわけでないが、最近物覚えが悪くなった。記憶すべき事と、忘れてもよいことを選択して日々整理を繰り返し過ごしているわけではない。記憶を貯蓄凍結し即座に検索解凍可能な能力等こちらにはもともと無いのだから、淡くなった記憶を都度刺激し輪郭を求める道具を横に置きさえすれば良いと考えるが、その使用が洗練できているわけでもない。こうしたログや、書棚等もそうしたもののひとつであるが、これらはあまりに散漫で、むしろあれこれの錯綜が時に記憶を消し、あるいはすり替わり、現在の一部になる。それも良いとさえ思うのだから始末が悪い。

こうした捏造を夢が後押しすることがあり、一昨日も夢の中、見た事も無いビデオカメラを手にした懐かしいような面々が円卓に座し、音声データのことばかりくどくどと話していた。挙げ句、そのカメラ自体が映像を投影するのだが、データプロジェクターではなくて、この機能はカメラの生理なのだ。と一人がプロダクトを説明すると、皆が感心するように深く頷いていた。日々の仕事や興味が、結果として俯瞰するとなるほど一貫して「過去」に関することであり、現在の瞬間のレスポンスではない内省的な性格であることが、デタラメな併置の夢を発芽させ、記憶に狂いの罅を与え、あるいはまた途方という彼方を目の前に顕して悩ませるのだが、こうした所謂「事後」という遅延対処が、人間の精神に齎す凍結力は凄まじいものがある。これは、やりっ放し、放下、無責任といういわば、雄の動物的な生理反復の逆転であり、つまり振り返って自身の痕跡を眺めるという凍結となる。すばやく反射をするか、その事後を省みるか、そのどちらの立場もとらないとすれば、その狭間で、どこか遠くを眺めるしかないわけだ。

carsten nicolai(1965~) / Alva Noto



松山・愛媛から倉敷・岡山に回る撮影スケジュールの為に、gentaがロケの前には必ず使っているというキャノンのサービスセンターでデジカメの簡易クリーニングを頼むと、5Dのファームウエアのアップデートはしてもらえたがファインダーの汚れは完全に復活せずガクリク。MarkIIIはきれいになった。平日のサービスセンターは午前中が割と空いていてよろしいようだが、新宿は3月に施設改装となるとのこと。約45分でクリーニングをして貰い、まあまあ満足。また使わせていただきましょう。ヨドバシでプラズマモニターなど見る。

後楽園でyazaki氏から、年末に背後で突然大きな音をさせ横転しマスクを血で滲ませながら鼾をかきはじめた男の頭を支え、両手を血で濡らして救急車を呼んだという事故の詳細と、数時間前交差点ですれ違った血だらけの男の話を聞き、それがこちらのどこかに残っていた。地下鉄でアリステア・マクラウド(1936~)の真直ぐな印象の短編の途中で本を閉じ、車内の人間の顔を思わず眺めると牛の目玉のような印象の3人の人間の瞳と交錯し、そのような印象を持つ自分に狼狽える。

映像を支える音響からはじめることで、映像に音響が導くリズムが生まれると踏み、ミニマルな反復のフレーズを幾つか試すが、決定に至らせることがなかなかむつかしい。ノートに万年筆で気まぐれに任せた数年前のエスキスを引っ張り出して、その絵柄をそのまま譜面にずらすと、音階となったので使うとこれが悪くない。

松山と倉敷の宿をネットで予約。松山ー倉敷間は意外に連絡がスムースと知る。できれば、倉敷で連泊か?