過ぎ去ってしまったコトは、時間の経緯とともに架空の戯れに似た儚さに包まれる。経済・報道などの情報を除けば(時には含まれる)、肉体も含めて身の回りはほとんど全て「架空」に強く結ばれている。
浅野の遺臣が本所の吉良に夜討をかけた16年後に刊行した、『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』(The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe) / Daniel Defoe (1660~1731)は、ジャーナリストでもあった。実際に無人島(マス・ア・ティエラ島 / ファン・フェルナンデス諸島)で生活したAlexander Selkirkの実話を基にしているといわれ、1992年には高橋大輔がこの島の考古学調査を始め、セルカークの足跡を追いはじめ、2001年にセルカークの住居跡と思われる場所を発見。2005年1月-2月に調査隊を率い発掘調査を行い、土の中から16ミリの金属片を掘り当て、2005年に発表している。
事実が架空を想起させ、架空が事実を求めたリングは、300年という時間の層を貫くように出来上がっているが、この無人島での生存の物語は、マルクスにより『資本論』の中でロビンソンを引用され、シルビオ・ゲゼルは『自然的経済秩序』の中で、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で取上げるなど、思考の歯車にも加担変異している。

最近の長大なTVドラマ(DVD販売戦略)のほとんどが、こうした「架空」の物語であり、これもまたいずれ意識の歯車になるかもしれないけれども、ダニエル・デフォーの実話を下敷きにした手法と比較すると、時代の危機感、切迫感を参照している、娯楽へ転化している感があり、例えばLOSTなどの物語の展開は、構造の核となるギミックが未だ明らかではないにしろ、現実世界の参照では架空を支えきれず、強引唐突な飛躍(意識のタイムスリップ・時間の歪み)をどこかに捏造しなくてはならないという脆弱さは、時間の経過に耐えられるかどうかはあやしい。こうした考古学とはなり得ない現代の娯楽に残されているのは、映像技術的なものだけかもしれないと思うと、なんだか哀しい。

Wiiを購入する切っ掛けとしようかなと触手が動いた、CINGアナザーコード:R 記憶の扉の、アナザーコード 2つの記憶から4年の開発成熟のひとつであるモーションの深化は、レヴェルの低いTVアニメと比べると悪くはない。こうしたものが、開発者の撒き餌を残らず拾うといった従順な潔癖ユーザーを育てるのではなく、例えば任意の組み合わせ、配置、選択肢によって、キャラを育成変異させ、物語自体が想定を超える途方も無い展開に繋がるといったことになると、「架空」が新しい現実への対応を要請する倫理的な意味も生まれて面白いのだが。