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ー男はかろうじて女の子を支えて、この災いの、自分がすべて元なのだから、せめてこの子を救わなくてはならない、この子が生きながらえば、人も助かると、何事かを待つうちに、向かいから人を分けて白い女が現れ、立ち停まって手招きするので、最後の力を絞って女の前に寄り、子を渡し、力尽きて女の足もとに崩れると、女は片手に子を抱えなおし、もう片手を伸ばして男の首すじに触れた。いかにも涼しい手だった。これで癒えて、死ねる。と男は安心して気が遠くなった。舞い狂っていた人たちも、我に返って、それぞれ家に帰って行くようだった。浄まった水の、落ちる音がしていた。
夢の中の事とは言いながら、俺や母さんは、どこにいたの、と息子は老父をなぶって見た。夜半過ぎに家に戻った息子と、寝覚めして起き出してきた父親と、居間に向かいあって、冷や酒を嘗めていた。凍てついた年の暮れの道を、咳をしながら行く者があった。同じ咳が再三通るように聞こえた。
お前は生まれていなかった。死んだ母さんとも、まだ出会ってなかった、と父親は答えた。
俺も、前世の俺だった、と言った。
ー撫子遊ぶ / 白暗渕 / 古井由吉より抜粋


夢の中であっても前世が降り積もるなら、潔い全うな生き方をしたとしても、前世の前世という果てしない累積が、ふとした空虚に遺伝子のような作用をするかもしれない。現世の償いばかりでは済まぬというわけだ。
特に男はこれで死ねるという感情を、観念で作り上げねばいけないのかもしれない。自分の過去も他人の過去も総て平等に降ってくるような、淡い想念の霧の中で、老いた人間はどのようにして、「これで死ねる」と思うのか。いかなる侮辱も屈辱も男にとっては地獄とならない。死に際に「死ねる」と思えない時が地獄とも云える。
「自らを楽しむ」という利己的な社会成長の波に押されながら、幸せという実感をなかなか持てないのは、人は利己的では成立しないからであり、同時に、個体として孤立した存在である凄まじい儚さを忘れるようにして生きるしかいまのところ術を知らない。

サクリファイス / A.Tを再び眺め、受難(生贄)とは正反対の自己正当化の観念の中、想起する振る舞いは、どれをとってもやはり贖罪の響きを纏うのだった。

「この眺めは、私の眺めではない」

どうも言葉は身の外のモノだから、紡げば紡ぐほど、自らが表出するというよりも、人の類としての普遍性が研磨される。「私」という言葉自体、個体を示すには無理がある。同じように、身の外の事として、光景を考えると、これも長い時間見つめ続けることで、固有な光景への寄りかかりは失せていき、ひとつの肯定性「こうである」という身も蓋もないあっけらかんとした氷結が明快になるばかりなのだが、不思議なことに「こうである」という表情には人の何かが憑依する。気をつけたいのが、この憑依を自己と勘違いしないということ。できれば凡庸フラットに、謂わば端正な憑依でありたいものだ。