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元来出来事は多様な側面を内在しているものだが、伝達の仕方は一人称の語りに依ることで片付けられていた。アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥのアモーレス・ペロスは、2001年の911同時多発テロよりも2年以上先駆けで脚本化されており、川上弘美の「どこから行っても遠い町」が2008年に刊行されたことは、なんら不思議でないし、こちらも一枚の静止画像の成立を巡る断片としての断章(レイク)が、同時多視という似たメソドで行われることを欲望して始められていることは、ある意味では、時代の匂いのコレスポンダンスとして片付けることはできる。ただ、今回川上弘美を読むに従って、多視語りの一人称が引っかかり、古井の作品へ人称の問題の確認作業として読み戻る必要を感じたのだった。つまり同時多視というさまざまな人間の語りの底辺にやはり作家のスタンスがうち広がることで、「どこにでもいる様々な人間」というリアリティーが崩れるおそれがあり、これは微妙な問題だということ。

事件が起きた時間に我々は打ち合わせ会議をしていた。窓の外の様子には一向に気づかず、ランチは中大とは逆の方向へ歩いていた。午後おそくなって次女が荷物をもって後楽園の制作室に訪れた際に、娘から事件のことをはじめて制作室の皆が聞いて知り、大いに驚いて思わずベランダに走ると、春日通の中大前には幾台ものTV中継車が並んでいるのが見えた。


どうも気になって年末から繰り返して聴いていたPerfumeの文脈を過去に戻ってボリュームで聴くと、思ったとおり中田ヤスタカ以外は、秋葉ローカルな狭く臭い閉鎖的なアニメオタクアイドルそのものでしかない。中田ヤスタカと出会う事によって、それまでのメイド風従属スタイルの少女達の仕事の質が変質したわけだ。中田ヤスタカの楽曲の突き抜けた時代感がなければ、少女達は田舎に帰っていただろう。これは紙一重の展開であり、男たちという集団のアツ臭い鬱積した精子そのものといえる振動を、わけもわからず身売りされた幼気(いたいけ)な遊女さながらに媚びて受け流すしかなかった形が、楽曲作品のフィットよって少女達の成長自体も変容し、ウザイ=ケモノである男への「扱い」自体が、洗練した母親でもあり、妹、姉でもあり、恋人でもあり、妻でもありそうな「女」の仕草として流れ出ることになる。丁度長女と同じ世代の、少女と女の境目を走るアイドルを、刃の上に乗せて走らせるようなこの国のビジネスモデルの、希有な成功例として、多分今年最も集客するイヴェントユニットとなるだろう。数万の雄の前で踊って唄うという系譜は、卑弥呼もそうだったろう。だからこの国が母系というオチではなく、奔放に視力を尖らせて狩りに出かけることができなくなった雄(男)の、性別種族の堕落の哀しみがこれで再び広がるけれども、どこか遠くを眺めている眼差しの存在も、その差異感が露になることで、鮮明になるような気がする。
とここで妙な繋がりだが、川上弘美の描く「コクトー」ならぬ自ら背負い込んで疲れ果てた男の、全てを放棄したような、「思い」すら落としてしまった超越的な「見てしまった」という目元の男たちが浮かぶのが、私は面白い。