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前作「溶岩の家」の舞台となったカーポ・ヴェルデやサラザール政権時代に、ポルトガルの植民地であったモザンピークからの移民たちが数多く住むリスボン郊外のスラム街フォンタイーニャス地区を訪ねた監督本人が、ヴァンダ・ドゥアルテをはじめとする実際にこの地区に住む人々に出演を依頼して撮影した。極端に貧しい生活を送る人々の存在感、彼等がつねに壁に寄りかかっている狭い路地の空間への配慮が何よりも強烈であり、前2作と比べて特定の映画の記憶はほとんど見えなくなっているが、それでも素人たちの起用と極度に切り詰められた台詞と沈黙、身振りの追求や扉の開閉時のクローズアップにロベール・ブレッソン、共同体の空間と時間への視線ではアントニオ・レイス=マルガリーダ・コルデイロ夫妻の作品を思い浮かべられるだろう。またミニマムな台詞とともに画面ごとの環境音のノイジーな使用がとりわけ際立っている。
ー中略
「骨」はその圧倒的なリアリズムで注目を集めたが、コスタ本人はこの撮影と作品に抱いた不満を解消すべく、ふたたびこの地区でDVキャメラと録音にDATを使い、2年をかけて「ヴァンダの部屋」を撮影し発表した。劇映画であるこの「骨」では数少ないとはいえキャメラの動きが存在しているが、よりドキュメンタリーに近いはずの「ヴァンダの部屋」ではそれが全く消え去っている。映画の思考の深化のプロセスとしても興味深い2作の関係である。ー骨(OSSOS 1997)イントロダクションより引用
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Pedro Costa/ペドロ・コスタ
1959年リスボン生まれ。リスボン大学で歴史と文学を専攻。青年時代には、ロックに傾倒し、パンクロックのバンドに参加する。その後、国立映画大学に学び、ジョアン・ポテリョ、ジョルジュ・シルヴァ・メロらの作品に助監督として参加。1984年に短編『Caratas a julia(ジュリアへの手紙)』を監督。1989年長編劇映画第1作『血』を発表。以後、映画プロデューサー、パウロ・ブランコのもとで『Casa de Lava(溶岩の家)』(1994)、『骨』(1997)を監督。ポルトガルを代表する映画監督として世界的に注目される。続いてデジタル・ヴィデオを使い、少人数のスタッフで『骨』の舞台となったリスポン郊外のスラム街ファンタイーニャス地区でやはり前作出演のヴァンダ・ドゥアルテとその一家の日常を2年間に渡って撮影した『ヴァンダの部屋』(2000年)を発表、ロカルノ映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭で受賞、世界各国の映画人から絶賛を浴びる。続いてフランスのテレビ局ARTEの番組『我らの時代の映画』シリーズのために敬愛する巨匠ストローブ=ユイレ夫妻を撮ったドキュメンタリー『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?』を発表、その後劇場用映画としてのヴァージョンを完成する。2006年、再びァンタイーニャス地区の人々とともに『コロッサル・ユース』を撮り、カンヌ映画祭のコンペティションに出品され、高い評価を得る。
<フィルモグラフィー> 「ジュリアへの手紙」Caratas a julia(1984年、短編)/「血」O Sangue(1989年)/「溶岩の家」Casa de Lava(1994年)/「骨」Ossos(1997年)/『ヴァンダの部屋』No Quarto da Vanda (2000年)/「ダニエル・ユイレ/ジャン=マリー・ストローブ 映画作家の微笑みはどこに?」Daniele Huillet,Jean-Marie Straub Cineastes-Ou Git Votre Sourire Enfoui?(2001年)/『コロッサル・ユース』Juventude Em Marcha(2006年)ーsomeone’sgardenより抜粋引用
「竜の卵」をなんとか読み終えようと2/3まで辿ったが、寓話の飛躍についていけずとうとう閉じて放り投げる。
lifelogよりマラノーチェを迷い無く即座にクリック。