宵の口まで素材状態のあまりよろしくない動画編集に翻弄されつつ飯も喰わずに数時間行っていて、幾度かの電話に継続を中断されたが放り出す切っ掛けにはならなかった。数日前に切れたディスクライトのクリプトン電球が宅配で届き、手元が明るくなってようやく仕事を仕舞う気分になる。昨夜呑み残したワインとバケットを腹にいれながらノスタルジアの場面を憶いだし、ワインで広がった胃にバジルのパスタを満たして、DEILS DE MIEL / Franck Thilliezを読み始める前に枝折を挟んだままだったEye of The Beholder / David Ellis(1967~)を再び捲り始め、深夜までかかって読み切る。もともと題名に惹かれて書店の戸棚から選んだ娯楽にすぎなかったが、Franck Thilliezの、ある種やんちゃなヒーロー展開の速読の後であったので、David Ellisの登場人物全て(多少差別的な構造もあるけれども)が全的に語り部となる重層的な展開と、リベラルな文体(おそらく翻訳が良いのだろう)の速度が、こちらの現在の身体的な状態とうまく絡み合って、ワインも取り込みに活性を与えるのだった。続けて購入していたTRAIN D’ENFER POUR ANGE ROUG / Franck Thilliezは、こうした取り込みの隙間に与える硬直を解す役割はあるので、まだ捲る気分にならない。
読み終えてTVを点けると母子殺害の被告人に対する死刑判決が決定したニュースが流れ、唐突に偶然の認識が共振し、会見でインタビューに答える人間の語りが、読み終えた物語の延長であるような錯覚が生まれた。
人間は、その現実的な特性として、知覚認識の後、その対象に対してはじめて「考える」ということを行うので、知覚認識し得ない対象に対しては「考える」ことが出来ない。おおよそ問題になるのは、開発や犯罪も含めて、この無謀を考慮しない「想定」や「妄想」を育む環境にあるのだが、簡単に「無知」と「未経験」を盾に、様々な局面を乗り切れる程、現実社会は平らでない。なるほどDavid Ellisは、その経歴を存分に生かした物語を構築していた。だが、一方で面白いのは、ある種の「予感」や「予知」、あるいは、直感に先導される思考もあって、駆け出しの場合大いに躓くだろうが、そのはじまりの先導の力が萎えない限り、そうした未熟で心もとないモノが「思想」となることも可能であるということだ。
おそらく私も含めて人間が、新しい体験を「物語」に求めるのは、事後確認的な認識の地図の復習の為ではなく、知覚の底に眠っている、使われずに仕舞われた能力に対する促しの刺激であり、白い空漠とした地点に立って不安に駆られながらも、最大限の「気概」を存分に使って生きてみたいと欲望するからだろう。だが、これが荒唐無稽な現実性を無視した「物語」であると、むしろ欲望は萎える。
なかなか見つけるのがむつかしいが、明快な表層が、深々とした層によって支えられていることが肝心となる。David Ellisは構想の構築力はあるけれども、足りないものは、数行の言葉の力、詩的な文体としての喚起力かもしれない。と、またここで、David Benioffが浮かぶのだった。