気持ちとは裏腹にゼロから立ち上げるという思春期ではないので、自身の排泄責任、歩みの傾向に従って、泥にまみれた眺めがこちらそのものだ。この汚れもこの春はどこか爽やかな気もするのだからおかしいものだ。

 半年の間、率直なベクトルに沿って、あるいは地に足を張る為とはいえ、まるで幽体離脱していたような日々の、浮遊の、離脱の、憑依もできない根無し草の態での精神生活から、魂を軀に引き戻し、自らの血の巡りへ魂の波長を帰還させる冬60日を過ごしたが、まだ時間が足りない。学生の頃の同じような時期を繰り返しているデジャヴュもあった。
 思い詰めた偏執の眺めをそのまま真っすぐに追求すると閉塞に陥る経験からか、本能として身が覚えたものかわからないが、その入口に彷徨いはじめると決まって、あれこれ普段より文章を辿ることを出鱈目に加速させていた。この冬の気温がかなり下がったこともあり、思念の彼方という地平で度々先がみえにくくなり、偶然もこれを助けるように、過去の事例を横に呼び出しては、責任を負う現象の行方を風呂の中睨む軀を取り戻そうと弛緩しつつ揉み解して、時に結晶化する意識を待つようだった。

 緩めば寝転んで多くを失い失踪した男と、記憶喪失の女のスクリプト(物語・映像)を辿りながら、こちらもどこかでそれにシンクロして、溜息をつきながら皮膚を擦り合わせる指先の音に実感が伴うのを待つように過ごしたようだ。