toyomi.jpg同時に並行して処理を任せられるPCは便利だが、私の場合この処理は事後的なものがほとんどで、個別の処理に時間がかかり、且つそうした累積を扱う場合、個別処理毎に手を差し伸べなければならないので、その総体時間自体に振り回されることになり(フルオートマチックとはいかないので)、PCに任せた時間を自由に使えるわけではなく、ひたすら苛立つ。この業務の時間をなかなかまとまって作ることができないのだが、納品を先延ばしにするわけにもいかず、休日を返上せざるを得ない。
そもそも思考を転がして洗練させ、明快な形にする時、あらかじめ想念としてイメージが浮かぶ天才は別として、私を含めた多くの場合、その過程において粘土を捏ねるようにああでもないこうでもないと弄くりながら目の前の変化を目撃しながら呟くように認識を繰り返して成熟させるやり方がほとんどであると思われるが、PCを使うことは、使い始める当初は、メクルメく明快なインタラクティブな顕われに呆気にとられるが、慣れる程に特にその反射レスポンス(演算)の過程における思考形成が、明快に目前に反映する点で際立っている。小説家が万年筆で文章を書き、欄外に注釈を挟み、あるいは削除の縦線を引くことや(昨今万年筆はむしろ珍しいだろうけれども)、絵描きが何層にも画布に色彩を与え、またそれを削り取り、更に加えることも、やはり、目の前に顕われる事象に対して都度新たに決断を与える思考形成を行うわけで、つまり「ああでもないこうでもない」という時間を「至高の時」と感じられる者が、こうしたコトに自らを注ぎ込むことができる。そういう意味で、ある種愚鈍な、先の見えない「弄くり」に興味の持てない種類の人間は、まったく別の人生を好むのだろうし、美的感覚や倫理の形態も異なっている。
巷は、演繹的なものと、帰納的なものが、それぞれクリエイティブな側と、特殊を一般化したい(無関心も含まれ、あるいはまたそのような緊急性に絶えず置かれている)側と面白いように照応(コレスポンダンス)し、これは相容れない深さと重さがあり、相互関係は、例えば与野党のようになかなか危うい。然し、最近はどちらも相応に正当性があると俯瞰する寛容を、スノッブ(おそらくこの巷の彼岸の隙間に「日本的スノビズム」(コジェーヴ)が漂っており、そこを住処にする意識も溢れている)ではない心地で抱くことができるようにはなった。
こうした傾向の心地の中で、肩にカメラをぶら下げて外を歩く事は、私にとって「シャッターを押すだけ」という超越的な行為あるいは出来事となり、危うい巷の俯瞰に清風を流す大きな意味を成している。但し、これも事後的に記録された画像を眺めることによって、その眺め自体が「思考」となり、これはどうも、演繹的でも帰納的でもない、空間に水滴が顕われるように自明な「思考」であるのが頗る面白い。


気のせいか、最近、精神的な疲労感が唐突に額に溢れることがあり、直感的に肉体の休息では解決できない怖れを抱いた。人生の拭えない澱のようなものかもしれない。