気持ちいい。
恵比寿に用事があったついでに、東京都写真美術館で「文学の触覚」を観る。ゲンタの言っていたようにほとんどは予想した通り。平野啓一朗+中西泰人のコラボにはがっかり。センサーや、インタラクティブデバイスというものは、使い方を間違えると幼児のおもちゃのようなインターフェイスに成りかねないという戒めにはなった。dividual(遠藤拓巳+ドミニクチェン+松山真也)には、思想を感じた。所謂カラクリのインスタレーションという判り易い仕組みだが、設計と実現を支えるベーシックな思考に、不透明だが、倫理的な可能性がある。Type Traceには、何か哀しい詩的な現代の人間性がある。
情報は有効にパッケージされて、テキスト、画像、音、の垂れ流しの状態から、こうしたソフトのような形の配布型へ移行するだろう。メーカーや企業は、もっと真剣にこうしたこと(ある種の実現型ヒューマンインターフェイスインテリジェンス)に取り組んで欲しいものだ。次世代は、こうしたもので遊びながら、現代を悩ませる複雑さを簡単に小さく手のひらに乗せて、もっと向こうへと切り開いてくれるだろうから。
児玉幸子の磁性流体プロジェクトは、表現の固有性において興味深いが、現象的であるが故に、逆に古典的な古風な眺めと映った。これが環境に活かされる時を待ちたいが、待っている時間が何か空しい。
こうした企画が片手落ちなのは、コラボレーションの意図は良いとしても、その効果にアプローチする第3者が設定されていない点で、この第3者とは、従来の例えば出版社であったり、意義を活かす可能性を模索する企業であったり、あるいはここから出発する社会的意味の実現を図ろうとする者だ。
成功パッケージの踏襲という形の選択が、経済的営みのテンプレートだとすると、実験的な試みにおいては、常に「問い」を投げる姿勢を取らざるを得ないけれども、その投げる方向を誤るべきではないし、誰が受け取り、「解答」を与える意気地を持つかを、あらかじめ予測調整するような仕組みを、そもそも「問い」に内在させる必要があり、そうした意味での第3者が、クリエイティブなスタンスのコラボレーターと土俵を同じくして、責任を持って意思表明すべきだ。
今後は、こうした社会的実現への輪郭を明晰に持つ「企画」が顕われるだろうけれども、そうした第3者はなかなか育つ環境はないのが現状だ。
勿論こうした危惧を抱えるクリエイターがいて、彼等が奮闘している現状もあるが、彼等の本質は必ずスライドする(制作する)のであって、危機感を意識化することは当然だが、彼等に全責任を委ねるという時代ではない。歩み寄り、互いが見えなかった地平を視野に捉える「環境(システム)」をこそ、顕す時が急がされている。