まず状況へ還す程度を識るために粒子の定着のレヴェルを試みる。描きの初動、タッチのような瑞々しさを全て潰してしまうのは馬鹿馬鹿しいので、囲碁のような後半勝負のせめぎ合いとなるかしら。
指に染み付いたものを払うのはかなり面倒だなと。
木炭紙と木炭に限定することに無理はあった。とは言え粒子を色面的に扱うつもりもないので、描きの速度の問題と、近視眼的な「戻し」(返還)を、スティックの描き根性という快楽を横に置くテストが必要なりと識る。「描いちゃうんだよな」という短絡を棄てたくもないけれども。
試験的な実作でこそ判ることがあり、それらを炙り出すために土壷に入るが、遠く忘れていたような感触の材の皮膜限界に納得しスケッチ的ドローイングとは云え指を離すコンスクエンスの俯瞰も降り、これはこれで狭い了見が解けた足掻きとなったようだ。
「悟の水浴」ーニュートリノ共鳴変容の皮膜ー 2016.6.charcoal,charcoal paper
写真画像と物語を交錯させたままそのいずれかへ比重が傾かないように「描き」を置くようにはじめたことであったが、皮膜的な顕われに任すことで、「描く皮膜性」の、今日的自由度というものを体感することはできたようだ。併行して観念で縛ったままの計画的ヴィジョンを展開させたこともあり、視覚的な捉えの「皮膜」への踏み込み幅のようなものも判った。個人的には数十年忌み嫌って死語的な扱いをしている「表現」という観念の曖昧さを、ここで今一度踏みつけて潰し、態度(姿勢)による表出の差異をあらためて自覚的に認識する。